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86年7月 マッキンリー(サンフォード 4952m)敗退記
小林 健二

山行日 1986年7月12日~8月3日

 今度の海外遠征でお世話になった、岩倉高校O.B山岳会との交流は7年前シャモニのキャンプ場で川野氏と知り合い、モンブランを一緒に登ってからだ。O.B会はヨーロッパ、ヒマラヤ等海外遠征十数回と海外登山遠征経験が豊富な会だ。
 今回、私と目標が同じマッキンリーだった為お願いして、登山隊の一隊員として参加させて頂く事となった。準備期間6ヶ月、遠征日数25日間、隊員6名『総合リーダー川野氏、35才営団地下鉄勤務。登攀隊長梅沢氏、32才東電勤務。装備・食糧担当渡辺氏、43才保険会社勤務。食糧担当森下氏、35才岩倉高校教員。記録・医務担当黒葛原(ツヅラハラ)氏、岩倉高校教員。会計担当小林、35才自営業。』と中年6人組である。
 個人、団体装備、食糧、医薬品、その他で約360kgの荷を岩倉高校よりトラックで成田まで運搬して、盛大な見送りを受け、岩倉高校O.B山岳会マッキンリー登山隊は7月12日21時30分、日本を出発6時間30分でアラスカのアンカレッジに到着した。税関で食糧のチェックを厳しく受けたがなんとかパスする。外は小雨が降り気温14度Cと少々寒い。登山世話人の金さんの出迎えを受け、トラックにて市内の金さんの経営する毛皮店の地下室に荷物を運ぶ。ここは広く30坪ぐらいあり荷物を広げ確認をする。金さんにマッキンリー公園管理事務所に連絡をとってもらうと『氷河のクレバスが開き過ぎて危険な状態で、下山中のパーティも下山できない』で、南面からの登山は禁止との事。自分の耳を疑った。"ええ本当に駄目なんですか"。何回も何回も聞き直すが本当らしい。がっかりして急に気が抜けてしまう。何のために多くの犠牲をはらいアラスカまで来たんだろう、全員、言葉が少ない。北面からの登山も検討してみたが、往復の道のりが100kmもあるので諦める。相談して結論は「サンフォード△4952m」という山に登る事になる。資料も地図もなく、2週間前に登った群馬のある山岳会の資料を金さんから借りて、食糧、装備、日程を決める。夜、中国料理店でしめっぽく宴会をし、白夜のアラスカを楽しみ、12時すぎ寝る。
 7月13日 曇り
 ファーストフードで朝食を済ませ、スーパーで食糧、スポーツ店で装備を買入れ、サンフォード登山計画を練り、2週間分の食糧と装備をパッキング。サンフォード山麓は熊や狼がいるとの事で身の安全のため、ライフル銃を買入れ、皆んなで銃の撃ち方を練習する。夕食は朝鮮料理屋で焼肉を腹いっぱい食べ、栄養をつける。
 7月14日 晴れ
 朝早く金さんの自宅からバス停へ。バス(バスと言っても11人乗りのライトバンである)に荷物を詰め込んで出発。今日は我々が貸切である。バスは国道2号線の高速道路を北へ走る。「高速道路が無料、さすがアメリカ」。休憩を3回ばかりとって、4時間余りの走行で軽飛行場に到着。事務所で往復の料金を払い手続きを済ませる。軽飛行機はスパーカブといって二人乗りで、荷物はザック一つがやっと積める程度の小さい飛行機だ。先発の森下さんは銃を持って、直接ランディングポイントへ、残った5人はライトバン(飛行場所有)でランディングポイント近くの飛行場へ到着。
 一人ずつ不安そうな顔して飛ぶ飛行機は離陸すると揺れも少なく、少し安心する。15分ぐらいで小高い丘に着陸、デコボコで平らな部分が100mもないのに良く離着陸するなーと皆んなで感心する。荷物だけでも2回ばかり運んでもらい、全員集合に3時間もかかる。ランディングポイントには小屋がある。小屋は無人で段ベットが2台、ストーブ、テーブルとなかなかのものだ。しかし蚊が多く、そのものすごさに参った。遠くにマッキンリーの山脈と近く目の前に大きなサンフォードが夕やけに燃えていた。
 7月15日 晴れ ランディングポイント~リレーキャンプ
 朝早く起きて、個人、団体装備と現地購入したスノーラケット(長さ145cm、幅25cm、米式かんじき)を背負子にくくりつけて、いざ出陣。ルートがわからないので草原を目標の氷河を目指して進むが、草原は湿地帯が多く足をとられ前へ進めない。右に左に進路をとる。そのうちに荷物(35~40kg)が重くなり、なかなか前進出来ない。30分歩いて10分の休憩が、20分歩いて20分の休憩となってしまう。景色は最高でお花畑が無限に続き、遠近にアラスカの山々が輝いている。景色とは反対に我々パーティは沈没寸前でいる時に、絶好のテント場に出合い、協議の結果賛成多数で今日は此処を幕場とする。休憩後、偵察とデポを兼ねて、川野、梅沢、黒葛原、小林の4名は氷河へと進む。荷が軽く、体も軽くルンルンで、氷河末端の見える丘に食糧、装備をデポしRCに帰る。夕食は酒もあり宴会となる。
 7月16日 曇り後晴れ RC~BC
 早朝、別ルート偵察隊の渡辺、梅沢は軽荷物で出発。後発隊はデポ地点で待機。風が冷たく寒いのでツェルトをかぶり連絡を待つ。しばらくして偵察隊から尾根ルートは駄目と連絡が入る。デポ荷物をパッキングして氷河へ。途中、不要のスノーラケットとライフル銃をデポし、丘を下り河原を登る。3時頃氷河の上にBCを建設、4人用と6人用2幕を張る。休憩後、梅沢、小林は偵察とデポを兼ねて氷河を登る。クレバスが思っていたより多く、大きく口を開けている。右に左にトラバース、なかなか前進出来ない。1時間くらい歩き、テント、食糧をデポしBCに帰る。白夜は夜中でも新聞が読めるくらい明るい。又、氷河の氷にてウィスキーの水割を楽しむ。氷河の氷はプシュプシュと音がして何とも旨い。
 7月17日 晴れ BC~C1
 朝食後、栄養剤とビタミンEを服用し、朝日を受け鏡の様に輝いている氷河を出発。荷物が重いとクレバスを飛越すのにヒヤヒヤものだ。氷河は色々な顔を持っている。デブリでブロック状の所あり、雪田あり、エメラルドグリーンの氷が模様を作っている所あり、中央は暖かいせいか川の様な水が流れている。ここでプラスチックブーツが威力を発揮した。水の中をジャブジャブと歩く。2時間くらい歩きかなり高度をかせぐ。スキーをやるのには絶好の斜面の上部で梅沢とトップを交代した小林が、10歩も歩かないうちにクレバスに落ちる。荷物で何とかひっかかっている状態、慎重にザイルで救助されたが、小林は膝から下が氷水に浸かりビショビショ。靴を脱いで水を出すが、「冷たい冷たい」を連発。前進して約1時間後、C1を設営する。テントの中でガスコンロを焚き、小林の靴を乾かすがなかなか乾かない。休憩後午後7時、渡辺、梅沢、川野の3名は偵察とデポを兼ねてC1を出発した。テントキーパー3名はトイレ造り、テントの周りにブロックを積む。偵察隊はルート工作に苦労している様子で右に左にバックしたりして登っている。9時頃になり天候が急変してものすごい雷とミゾレが降ってきた。偵察隊が心配である。無線は雷のため中断。1時間後3名がビショぬれで帰って来る。偵察隊の話ではC1から上はクレバスが多く、氷河の状態が悪くC2建設がむずかしそうである。
 7月18日 晴れ後雨 C1~C1
 今日は停滞と決めこんでいたのに急遽偵察することになり12時C1を出発。川野、渡辺、黒葛原の組と、梅沢、森下、小林組に分れてザイルを組む。C1上部はクレバスが大きくスノーブリッジが多い。第一難関を突破し行動食を食べ、前進したがトップの梅沢が目に見えないクレバスに落ちる。森下、小林が確保する。梅沢は自力で脱出できず、渡辺がザイルを伸ばし救助に行く、交代で梅沢の落ちたクレバスの穴を覗きに行くがすごい、底が見えず大きな洞くつになっている。確保している所もクレバスの上である。協議した結果、これから上にもクレバスが多そうで前途多難、下山のさいスノーブリッジが落ちて下山できない場合も予想され、登頂を断念する。下山の際いい斜面でスキー持参の森下がザイル付きで滑る。やはり氷河の雪は滑りにくいらしい。途中からアラレになりC1に帰営する。その後も風雨が激しく台風の様である。正午ごろ余りの風雨のものすごさに非常態勢で靴、スパッツ、ヤッケ等を身に付ける。3時頃になり風雨が少し弱くなったので寝る。
 7月19日 曇り後雨 C1~BC
 早々にC1を撤収し、クレバスに充分注意しながら下山。
 小林がクレバスに落ちた斜面で、森下持参のスキーを借りて、交代で全員スキーでアラスカの氷河を滑る。8mmビデオで撮影しているのでポーズをとりすぎて転倒する者が何名かいた。アラスカの氷河でスキーをやったんだという思い出を胸に残し下山。BC近くの氷河は大荒れでクレバスがまた大きくなっており、やっとの思いでBCにたどり着く。
 7月20日 曇り BC停滞
 今日は停滞、なぜ停滞かと言うと早く下山しても、スパーカブ号が飛んでくる日が24日なので、日数調整中なのである。皆、自由行動、氷河のデブリのブロック状の所で氷壁登攀をやる人、持参のケーナで(南米のボリビア、ペルー地方のタテ笛)南米音楽をやる人、テントの中でゴロゴロしている人。全員健康状態は非常に良く、食欲旺盛で、食事で配当以外少々物が残るとジャンケンで権利を得ると喜ぶ有様は子供の様に大変なものだった。
 7月21日 晴れ BC~RC
 BCより下山は沢を下る。氷河に別れを告げ、きれいな花が咲いている、お花畑の丘を登る。ライフル銃、スノーラケットをデポ地点で回収し、今日のテント場は蚊が多いが眺めの良い丘、サンフォードも反対側の山々も見え、気分は最高、RCを設営後、下山道のルートハンティングに行く。やることがなく、新聞の隅々まで読みふける。夕焼けに映えるサンフォードがすばらしく、カメラのシャッターを切る。
 7月22日 晴れ後曇り RC
 今日もフライト調整のため停滞。十分に睡眠をとり、朝食後、3組に分れ丘に登り高山植物の撮影をしたり、鹿の角を拾い集めたりでのんびりすごす。鹿が何頭も姿をあらわす。
 7月23日 嵐 RC~ランディングポイント
 午前3時、6人用テントがものすごい風のため、ポールが折れテントがつぶれる。脱出してテントの上に石をのせて、4人用テントに6人が集合し仮眠する。午前8時に撤収作業に入るが、風が強すぎて困難を極めるがそれでも何とか10時にはパッキングし、風を背に受けて出発する。奴凧の様に進む。目指すは山小屋、荷が重く肩が痛いが強風のおかげで少々楽である。湿地帯はグチャグチャになりながら直進する。途中で狼追われた鹿の突進にあい、野性の狼を初めて見るが、こちらは6人だったので恐いとは感じなかった。PM1時すぎ全員、黄金の山小屋に到着し、ひと安心する。今日は食べ物が沢山あるので腹いっぱい食べる。
 7月24日 曇り後晴れ ランディングポイント~ロッジ
 朝6時起床、食事後、ライフル銃を交代で標的に向い撃つ、衝撃が肩にずしんと重い、みんな中々当らない。8時10分、予定通りスパーカブ号が飛んで来た。前と同じ様にして近くの飛行場に着陸した。今日も風がなく全然揺れず、パイロットはグッドフライトと言い握手をして別れる。ライトバンでバス停近くのロッジへ、今日はここに泊る事になる。昼めしはロッジのレストランで食べる。バイキング方式なので山で食べたいと思っていたものを食いあさる。「スイカ、メロン、ブドウ、サラダ、鳥の空揚、パン等々」。シャワーを浴びるがなかなか汚れが落ちない。晩めしは鮭のステーキ、牛のステーキと腹いっぱい食べる、又、ワインもおいしい。
 7月25日 雨 ロッジ~アンカレッジ
 朝食は部屋において、山で残ったアルファ米とカレー、福神漬を食べ、バスで雨の中アンカレッジに向い、5時に着く。日数が余ったので明日から、レンタカーを借りて、デナリ(マッキンリー)公園方面に行く事に決定。
 7月26日
 キャンピング用品と登山用の食糧をスーパーで買物をして11人乗りのライトバンで出発、タルキートナで一泊する。
 7月27日
 丘の上から見たマッキンリー山群に感嘆した、せめてBCぐらいまで行きたかった。悔しい残念。マッキンリー南面から北面へと車は走る。運転手は梅沢、森下、黒葛原の三人だ。デナリ公園キャンプ場は予約制なので、近くのキャンプ場で泊る。
 7月28日
 フェアバンクスという小さな町を観光し、キャンプ場に泊る。アラスカはキャンプ場が多く、そのほとんどがキャンピングカーによるキャンプだ。利用者の多いのには驚く。日本のバスぐらいのキャンピングカーが多い。
 7月29日
 フェアバンクスよりデナリ公園へやっと入る。指定のキャンプ場へ車を停め昼食後、公園内を走っているシャトルバス(無料で乗り降り自由)でワンダレークに行く。途中から舗装していないのでホコリぽくて参る。途中で熊、鹿、ムースが顔を出す、そのたびにバスは止まりサービスする。ワンダレークでは北面のマッキンリーが全容を見せてくれる。本当に大きくすばらしい山だ。公園は大きく長さが140kmぐらいで今日は往復8時間もバスにゆられ疲れる。
 7月30日
 今日はデナリ公園で停滞。天候は曇りで風も強くて寒い。近くの丘(山)にハイキングに出かける。
 7月31日
 デナリ公園よりアンカレッジに帰る。今日はホテルで泊る。部屋で宴会をする。宴会は毎夜の事だが。
 8月1日
 今日は市内見学、土産の買物をと忙しく街を歩き廻る。夕食はメキシコ料理を食べに行く。辛いものが多く牛ステーキが最高に旨かった。
 8月2日
 早朝のアラスカ鉄道に乗りタルキートナまで行き、軽飛行機でマッキンリー見学しようと思ったが天候が悪く、飛行機は氷河の末端でひき返す。空から動物をハンテングし、砂金の露天掘りを見学。1時間10分ぐらいで遊覧飛行を終る。
 8月3日
 荷物を梱包し、あわただしく空港へ。銀色の空の中、DC10は日本へ向う。過ぎてみれば短かった25日間のマッキンリー登山旅行。マッキンリーには登れなかったが25日間岩倉高校のOB会5人の皆様と行動を共にし、得るものがたくさんあり、有意義な遠征でした。最後に装備をお借りした三峰山岳会の皆様のご好意厚くお礼申し上げます。ありがとうございました。


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