トップページ > 岩つばめ一覧 > 岩つばめ169号目次

計画及び準備概況
小沢 正美

 38年度行事計画の一つとしての春山合宿は岩と雪の殿堂、剱岳剣沢合宿として、その準備は着々と進み4月を迎えるや、諸事情による若年会員の不参加が多く氷雪訓練を主体とする本合宿の本来の意味が薄れるに至って、より入山しやすい穂高岳沢にBCを移すに至った。
 岳沢の放射状登山、更に天幕を穂高の稜線に上げ、槍への縦走、滝谷へと...中堅会員の強化を目的に意欲ある前進をはかるべく、昨年に引き続き岳沢にBCを張るべく何回かの準備会が持たれ各自の担当を下記のごとく決定され速やかにその準備に入った。

メンバー
リーダー小沢 正美
S.L 医薬、記録山越 勲
S.L 食料原口 藤雄
食料、通信小島 作蔵
食料内藤 晴次(後発)
装備山本 敬三
装備藤田 昌
装備吉田 孝一
燃料三村 重義
牧野 盛治

装備計画表
バーナー(ホエーブス大) 2 6人用ウィンパー 2
バーナー(ホエーブス小) 1 4人用ウィンパー 1
バーナー(ラジウス大) 1 ツェルト 2
バーナー(ラジウス小) 2 スコップ 3
大鍋 2 ナタ 1
中鍋 2 ナイロンザイル(40m) 2
コッヘル 2 麻ザイル(30m) 2
まな板 3 補助ザイル 2
包丁 3 クレモナ 50m
しゃもじ 3 ハーケン 35
お玉 3 アイスハーケン 3
缶切り 2 カラビナ 25
布巾 1 ロックハンマー 6
おろし金 1 ラジオ 1
お盆 2 マジックインク 2
ジョーゴ 3 バーナー修理具 1式
除雪タワシ 3 エアマット 1式

行動記録
小沢 正美
山本 敬三

4月27日 出発 記録:小沢
 見送りに来た内藤達も共に22時35分発の第二穂高で9名出発。

4月28日(晴) 奥又白へ 記録:小沢
 早朝の島々駅は山屋でごった返し長蛇の列が長々と続く。これらを横目に我々は、いつもの青果屋のトラックをチャーター上高地へ。だが途中トラックのファンベルトが切れ大正池のダムの手前にてトラックがストップしてしまった。やむを得ず全員重荷に喘ぎ、かなり予定より遅れ12時40分カッパ橋着。BC(ベースキャンプ)設営に岳沢に上がる山越、原口、小島らとBCでの再開を約し、小沢と三村のみは正月に松高ルンゼに放置した固定ザイルの撤収を兼ね、奥又白第一尾根を登攀すべく徳沢に急ぐ(13:30)。明神(14:00)、徳沢(14:40)、ルンゼ下(16:00)にて岩陰の溝に枯れ草を敷き、ツェルトを被ってビバーク。

4月29日(快晴) 第一尾根~奥明神 メンバー:小沢、三村 記録:小沢
 しんしんと冷え込んだ長い夜も眼前の常念、蝶の稜線が白んできた。熱いラーメンをすすって、4時40分出発。松高ルンゼ入口はデブリの押し出しで埋まりガッチリと凍っている。松高尾根の雪は完全に消えて青々と草の芽があった。が、フィックスザイルはなかった。
 カチンカチンのルンゼを滑滝のクレバスを縫ってルンゼを詰め、宝の木直下の雪面に出る。足元より本谷を経て広大な雪面が広がる。前穂の頂に朝日が輝き、その光束は暗い谷を目掛けて走る。雪面に赤と黄のウィンパーが目にしみる。
 6時15分、雪に埋まった又白の池に出る。踏替点ルンゼ入口(6:45~7:00)より踏替点に立つと左手に低いコルが見える。これを登り詰め(7:35~8:10)簡単な食事を摂る。前穂東面の岩壁の雪もほとんど消え、朝日を浴びてバラ色に輝く岩壁が次第に濃い紫紺に変わって、澄み切った空に這松の緑と雪渓の織りなすコントラストは実に素晴らしい。
 ここでアンザイレン、三村トップで忠実に雪稜を辿り。3ピッチでトップを替わる。更に2ピッチでほとんど傾斜のない痩せた岩積に出て(9:30~9:50)コンテニュアスでピナクル直下のコルに出る(10:30)。先を急ぐためピナクルの直登を避けA沢側にルートを取りハングの下を潜るように雪面をトラバース。前穂~明神への縦走路に出、第一尾根の登攀を終わって(10:05~12:00)大休止。
 又白谷に白雲が湧いてきた。「さあ行こう」と眼前のガレを下ってデブリに埋まった奥明神沢に下降。頭上の落石を気にしながら狭いコチンコチンの急斜面をBCに急いだ。
 13時30分BC着、丁度テントキーパーの山越が新人3人を連れて上高地にボッカに下るところだった。『一休みしたら応援頼む』と手を振り振り下っていった。
 一息入れたところへコブ尾根へ向かった原口、山本、小島が帰った(14:20)。彼らと入れ替わるように山越らを追って小沢、三村、上高地へ下る(14:30)。7人でのボッカで物資のほとんどがBCに上がり、今夜は全員天幕に揃った。食当の原口、小島、装備の山本、燃料の三村、新人の藤田、吉田、牧野、医療・記録の山越そして小沢と各ルートの話題に花が咲いて夜も更けていった。

4月30日(曇) 西穂沢西穂往復 メンバー:小沢、小島、藤田、吉田 記録:小沢
 奥穂の稜線は重いガスに隠れ見えないが乗鞍、御岳は朝日を浴びて金色に光っている。
 思わしくない天候に出足が鈍って、7時30分『調子が悪ければ扇沢下部で遊ぶさ』と山越、三村、山本と元気にモートーを交わし陰険な滝沢へ、南稜へと出発していった。
 9時、西穂沢~西穂往復の小島、吉田、藤田、小沢のオーダーで出発。同じく原口、牧野、上高地へ下る。稜線付近は濃いガスに覆われ、時々厚い雲間より薄日が射し雪がぐさぐさに腐って登行し難い。11時05分稜線へ出る(11:10~12:00)。雪の消えた縦走路を西稜へ(12:30~12:50)。この頃ちょっと頭上に青空も見え、ガスも晴れて雲をまとった笠ヶ岳、そして遠く裏銀座の山々も見える。遠望も束の間、グシャグシャの西穂沢を一目散に下降、BCに帰る(13:30)。続いて原口、牧野のパーティも上がってきた。

4月28日 岳沢BCへ メンバー:山越、原口、小島、山本、牧野、吉田、藤田 記録:山本(敬)
 トラックの故障で荷が重く上高地までにとうとうへばってしまった。ここで小沢、三村らは軽装備になり張り切って奥又白谷へと向かう。
 我々は荷を半分白樺荘に預けて岳沢へと向かった。2ピッチ半、去年のベース地である水呑沢台地へ着く。早速天幕を張り、その日は早々に床につく。
〈タイム〉上高地(14:00) → 水呑沢台地BC(16:25)

4月29日(晴) コブ尾根 メンバー:原口、小島、山本 記録:山本(敬)
 天狗沢へ向かう山越さんらと別れてコブ沢を登りコブ尾根側のルンゼに入る。上部は傾斜がきつく一汗かく頃尾根に出る。尾根通しにルートを取り30分も登るとギャップがあり、前のパーティはアプザイレンで下っている。
 我々は左側を回り込み難なく通過する。一峰のコブが真近に見える。コブの基部にて小休止の後、登りにかかる。岩質は硬く快適に登り一峰の頭へ。小休止の後下りにかかる。一峰の下りは嫌な所だが無事通過する。ここから先はガラガラの平凡な尾根なので登る気がせず扇沢へと下る。傾斜がきついので慎重に下った。
 上部は広々としていたが、下るにつれて沢幅が狭くなり滝場が現れる。滝を下り終えると出合はすぐそこだ。BCに帰ると小沢、三村の組が無事第一尾根を登ってきたとの知らせを受ける。彼等はすぐ荷揚げのために上高地へと出発していった。残った我々はのんびりと休養を取ることにした。
〈タイム〉BC(6:30) → 一峰の頭(10:30) → BC(14:30)

4月29日 天狗沢往復 メンバー:山越、牧野、吉田、藤田
〈タイム〉BC(6:30) → 天狗のコル(8:50~9:05) → BC(10:25)

4月30日(曇) 南稜登攀~天狗沢へ メンバー:山越、三村、山本(敬) 記録:山本(敬)
 5時起床、外を見るとガスがかかり今にも雨が降りそうな様子。温度も高いようだ。しかし、時間が経つに連れてガスが上がってきた。とにかく出発することにした。7時35分BC発、岳沢を詰めて扇沢出合に着く。ここから南稜を見るとトリコニー付近がはっきりと見え登攀欲を湧かせた。大滝下部は大きなクレバスが口を開けている。これを慎重に越して稜線に食い込んでいる階段状のルンゼを登る。
 高度をぐんぐん上げてトリコニー一峰の基部へ。トリコニーの快適な岩稜を登り一峰で軽い食事を摂る。難なく二峰も登り、三峰は割愛する。これからは雪稜である。ナイフリッジあり、岩稜あり、最後の登攀を楽しむ。
 11時35分、稜線に出る。ここから奥穂は真近だ。奥穂の頂上で小休止、天狗沢を下るか奥明神沢を下るか、迷ったが天狗沢へのコースを取ることにした。馬の背の嫌なナイフリッジを越してロバの耳へ。ロバの耳は他のパーティが下っていた。時間がかかりそうなので食事にする。ロバを通過、ジャンダルムも何事もなく過ぎた。雪もほとんど消えた西穂への稜線を下り天狗のコルへ。
 天狗沢の雪はざくざくで真ん中に大きな溝が掘れている。多分他のパーティが下った跡であろう。溝伝いに下る。15分ほど下ると畳岩尾根からのルンゼの出合に着く。突然ルンゼからブロックが一発落ちたのを見た。3人ともいくぶん右側(天狗尾根側)へ寄る。それからすぐにルンゼから雪崩が落ちてきたので全員右へ逃げた。それと寸秒をおいて天狗沢側からも落ちてきた。もうだめだと思いピッケルをぶち込む、山越、三村の2人は私の後ろに居たはずである。
 轟音とともに雪崩は去った。後を見ると2人がいない。大声を上げて付近を見たが誰も居ない。叫びながら下っていったら下の方から声がした。三村だった。三村は腰のあたりをやられて歩けないと言うがとにかく安全地帯へ下ろさなければと思い、無理にも歩かせた。下りながらも辺りを見たが山越さんの姿は見つからなかった。下に来るにつれてデブリが凄くなる。
 大分下った所に三村をおき、ベースへの連絡に下る。途中で他の山岳会に遭ったのでベールへの連絡と捜索をお願いする。三村の所に引き返し励まし下る。この時山越さんが見つかったことの知らせを受けた。下まで来ると小沢さんが上がってきたので事故の報告をする。他の山岳会の人が手を貸してくれたので、三村をその人に頼みシュラフを取りに下る。小島さんから山越さんの死亡の知らせを受ける。シュラフ、ツェルトを持って藤田、牧野と共に現場に急ぐ。藤田は三村について下る。遺体をBC近くに安置した。
〈コースタイム〉BC(7:35) → トリコニー一峰(10:05) → 稜線(11:25) → 奥穂(11:30~11:35) → 天狗のコル(14:00) → 畳岩ルンゼ(14:15)(遭難時)

救助、捜索の概要
小沢 正美
小島 作蔵

 30日午前中の行動を終わった連中が天幕に入り、さてお茶でもとバーナーに火を点けようとした時『ドドウッドウー』と下腹に重々しい音が響いた。『雪崩だ』と天幕より首を出せば、正面の天狗沢のガスの中に雪塊がモレモレと落ちていた。14時15分だった。
 白一色の沢筋に褐色の帯が凄まじい勢いで延び、またたく間に出合近くに達してその流れはしばらく続いた。
 凄まじい流れの去った後に人影が動いた、助かったようだ。何か叫んでいる、三峰コール『モートー』とも聞こえたようだが確認できない。『モートー』『モートー』を送るも全然通じない。あ、直ぐ下にもいる。2、3度立ってはよろけて雪面に隠れた。怪我をしているようだ。畳岩尾根に待機していた連中も続々現場に救助に急行している。
 『原口!怪我しているようだ、薬品類持って行こう』『小島、行くぞ』と3人、カンバの尾根を駆け上がる。他の天幕からも急行している。沢脇に尾根上に出合近くで岩石の露出する末端に着いた時、いち早く現場に向かった北辰電機山岳部の方が『三峰の方ですか?お宅の山越さんが行方不明です』と山本さんの伝言を伝えられた時、まさかまさか山越のパーティが...ああ最悪事態に見舞われるとは、先程のコールはやはり『モートー』だったのか。
 はっと我に返った時は赤茶けたデブリの中を駆け上がっていた。小島はスコップを取りにBCへ駆け下っていた。
 山本の肩を借りて下っている三村を露岩の安全地帯にトラバースさせたが、歩行困難なので山本に付き添わせてBCへ下ろすよう言い、すぐ山越捜索にデブリの中に入ろうとした時、下方より『いたぞ』の声あり(14:30)(東京鉢山山岳会の方が救援のため、雪崩の末端を天狗尾根側に100mぐらい上がった所で靴、ザックを発見、続いて雪中に山越君を見出した)。
 すぐに届いたスコップで掘り出すも(14:45)まだ身体に温もりがあったが既に脈はなく喉頭、頬、額にアザがでていた(水分をより含んだ赤茶けた雪中約20センチの所に、頭を下に左手は前に伸ばし、右手を胸中に、両足はやや膝を折り、かすかに開いてうつ伏せに埋まっていた)。すぐに医者をと、岳沢ヒュッテへ走ってくれた。
 14時50分、小島を東京へ連絡のため(山越の家族、会へ、岡野さんへ)上高地へ下らせる。
 15時、日本医科大学インターン関口さんの検死「頸動骨骨折、即死と...」続いて三村の様態診察の以来をし、牧野の案内でBCに行ってもらった。(記録: 小沢 正美)

 山越君行方不明の報を受けるや、私だけがスコップを取りに戻り、藤田にザイル、吉田にスコップを持ってもらい現場に引き返す。天幕には牧野だけ残す。我々が最下部のデブリの所に着いた時、既に山越君を探し出し、小沢さん、原口君が他の山岳会の方の応援で掘り出していた。
 山越君の脈をとってみたが全然なかった。一応人工呼吸をしたが息を吹き返してはくれなかった。岳沢ヒュッテには誰かが医者を呼びに走ったが、私は家族や会への連絡のため上高地に下ることにした。上高地にはまだ公衆電話が開通していないとかで、場合によっては松本まで行くことを考え最終バスに間に合うよう急いで下る(BC15:00発)。
 下りながら遭難救助本部に報告してからの方がよかろうと考えた。上高地帝国ホテル内にある本部に到着(16:30頃)。隊長の木村さんに連絡をし、そこの電話を利用して山越君の家族、内藤君の勤務先(長久、宮坂両氏にも伝言を依頼)、水戸の岡野氏に連絡した。
 17時30分頃、豊科警察上高地派出所の巡査がみえたので報告やら質問に回答する。明日の遺体引き下ろし作業についてはBCに帰って相談して決めると回答し、トランシーバーを借りて戻ろうとするところへ小沢さん、原口君、山本君らが連絡のためやってきた。(記録: 小島 作蔵)

遺体収容と搬出の概要
小沢 正美
原口 藤雄
内藤 晴次

 30日15時10分、遺体を寝袋に収容、背負子とスコップでソリを作り、原口、山本、吉田、鉢山山岳会の3名の方と岳沢ヒュッテの斎藤さんと8名でカンバ尾根まで降ろし一旦ここに安置し、彼の冥福を祈り黙祷を捧げる。
 16時頃、ヒュッテの上条さんが関口さんの案内でわざわざ見舞いにみえられた。
 16時40分、簡単な夕食で腹ごしらえして東京との連絡、今後の行動につき打ち合わせのため、原口、山本、小沢とで雨の降り出した岳沢を上高地へとすっ飛んだ。
 17時30分頃、上高地着。派出所へ向かったが不在。早速遭難救助隊長の木村さん宅へ、派出所の青柳さん、木村さん共松本へ電話中。しばらく待って山本が簡単な状況説明。状況聞取書の作成。続いて今後の打ち合わせを行い下記を決める。
・遺体搬出は会員で明11時までに上高地へ下ろす。
・5月1日13時、内田先生の検視、夕刻より荼毘に付す。
・原口、山本はすぐBCに戻り明朝7時に作業開始(19:30頃BCへ向かって出発)。
・明朝早く東京の連絡を待って小島をBCへ向かわせることを決める。
 東京より指示の電話を待つも23時を過ぎても返事がない。終夜風雨激しくBCの三村が気になる。小島、寝返りを打って寝付かれない様子。(記録: 小沢 正美)

4月30日
 小島、小沢氏の2人を上高地に残し、原口、山本は幕営地へ、ヘッド・ランプの光を頼りに登らなければならない。残雪に残されたルートを選び出し何度か迷いながら、天幕地に着いたのは21時30分。
 三村が熱を出しヒュッテから東京医大の関口さんともう1人の人が来てくださった。幸い悪化してないとのことで一安心。
5月1日
 ビショビショに濡れたシュラフで眠れぬ一夜を過ごし、降りしきる雨の中を遺体を下ろさねばならない。吉田君を連絡のためヒュッテに出し、残す三村には我々のすぐ下の天幕(名大山岳部)に三村の話し相手をお願いして原口、山本、藤田、牧野の4人で硬直した遺体を雪渓通しに約30分くらいで相当下に来てしまった。右方に寄り過ぎたため左にトラバースせねばならず、遺体の真ん中に樺の木を通しザイルで固定、ガラ場を慎重に少しずつ動かす。相当の重量のため疲労が甚だしいが皆頑張り通す。森林帯のルートに出た所で内藤君が登って来てくれ総勢6人となる。
 細い道を何度か転びながら担ぎ上げ、雪渓の所は引き下ろし、悪戦苦闘の末上高地まで。河童橋からリヤカーの乗せ荼毘場へ行く。荼毘場にはまだ真新しい先人への花が生々と咲いて、死に行く者へのはなむけか、何か私には人生の諸行無常感を与えるのであった。(記録: 原口 藤雄)

5月1日(雨)
 東京よりの連絡ないままに小島BCへ向かう(8:00)。
 10時、派出所の青柳さんより、今朝内藤が応援にBCへ登ったと、また山越の家族が新宿を8時の急行で出発されたと連絡あり。
 雨は以前と降りしきる。
 10時30分、カッパ橋へリヤカーを引いて出迎えた。
 11時30分、遺体は原口、小島、山本、藤田、吉田、牧野と応援の内藤らに見守られつつカスミ沢押出の荼毘現場へ。
 びしょ濡れの衣類を木村さん宅のストーブで乾かし熱い昼飯をご馳走になり、原口、藤田はまたも雨の中をBCへ。ショックと雨中の行動に新人の牧野、吉田はバテ気味だ。
 15時、内田先生の検視も青柳さん、小島、小沢の立会で済み、メモノートその他遺体より遺品を集める。
 16時少し過ぎ、山越君の兄さん、長久さん、佐藤の4名がみえられた。直ちに状況報告の後、ご家族を遺体へご案内する。
 19時より荼毘、長久さん、小沢、山本、佐藤、牧野ら参列、花で埋まった彼の横顔に冥福を祈る。やがて今はとっぷりと暮れた穂高の山々に、岳沢に白く一筋の煙が静かに上り吸い込まれていった。
明日(5月2日)全員下山の命によりBCを明朝撤収すべく、また三村の救出に小島、吉田の2名を17時BCへ上げる。
5月2日(快晴)
 5時起床、三村救出とBC撤収のため小沢、佐藤、山本の3名、BCへ、BC7時着。ただちに撤収、9時下山。三村、杖を頼りに自力で下るもかなり辛そう。岳沢の雪渓の終わる森林帯入口で我々よりかなり遅れたのでここより、背負って上高地まで下る(11:30)。駆けつけてくれた岡野さん、渡部君らの応援があり、関係各所へのお礼を申し上げ、差し回しのマイクロバスで松本へ。(記録: 小沢 正美)

 4月30日に現地の小島くんから遭難の電話があった時、生憎と外出していたため伝言を受けたのは午後5時半頃だった。家の者からの伝言なので遭難現場が何処かも判らず、山越君の死亡と1名軽症程度と宮坂さんに連絡する。技研部の残り部員に連絡し、取り敢えず先発隊として私が単独で行くことにする。
 最初の予想では滝谷ではないかと思っていたが、テレビのニュースで知ったという保坂の話では奥穂と西穂の中間と聞き、天狗沢らしいので涸沢より岳沢の方が救助活動も楽なので内心ホッとする。兎に角私がBCまで行ってはっきりしたことを連絡することにした。
 家族の方、野田、保坂、中山、大沢の見送りを受けて出発。松本駅でバスの乗務員に事情を話し、一番バスに乗せてもらう。8時頃、上高地着。派出所に挨拶に行き様子を聞くと、帝国ホテルに救助本部を置き、会員が一人連絡員として残っていると伺ったが、医師が12時に登ってきて検視を行うからそれまでに遺体を下ろして欲しいとの要請があり、救助本部には寄らずBC目掛けて雨の中をすっ飛ばした。
 ベースをわずか下った所で原口君指揮の遺体搬出隊に加わり、前を担ぎながら状況を聞きつつ上高地に下る。警察から長久氏らと家族が今朝の急行で発ったことを聞き、2時頃まで雨で濡れた服を乾かしながら休み、明日のテント撤収のため原口、藤田、内藤でBCに戻った。(記録: 内藤 晴次

本部日記
宮坂 和秀

 4月30日午後6時、山越、三村遭難の第一報入る。山越君死亡、1名軽傷とのことである(内藤君報)。取り敢えず内藤君に救援隊先発を依頼する。
 8時、山越宅と連絡を取る。ご遺族の方達さぞ気を落とされたことであろう。内藤君宅を訪問するも既に22時35分に乗車のため出発後。依頼した代表長久君との連絡の件、回答得られず。山越宅訪問と内藤君見送りは長久君と連絡の必要上、残念ながらできなかった。
 9時30分、長久君宅へ連絡するも帰宅せず。帰宅したら事務所へ来るよう依頼。高橋君来訪、善後策を協議しつつ長久君を待ったが来訪しないので当方より訪問する。11時30分、同君帰宅。既に情報をキャッチし山越宅と打合せ済みの由。明朝第二陣として長久、佐藤らご遺族2名を伴い出発を約す。
 5月1日、早朝より会員各位から電話しきりなり対応にいとまなし。現地からの情報第二報は入らないが読売、朝日、毎日等各紙朝刊社会面に掲載されたものによると、山越君死亡、三村君軽傷、山本君無事とのこと。
 一応、東京都岳連に連絡せねばと電話をしたが、鳴ってはいるが誰も出ないので諦める。
 午後、第三陣を編成。岡野、上曽、渡部の3君に22時35分で出発方を依頼。現地から第二報やっと入る。新聞とほぼ同じ。三村君の勤務先と連絡を取り、両親現地へ赴く由。第三陣と同行させることとする。
 大三報入る。第二陣長久君ら現地到着。今夜荼毘、明日遺骨帰京とのこと。岳連に連絡、状況を説明しておく。一行のうち山本君、新人の牧野、吉田両君宅へも電話、いずれも無事なことを知らせておく。
 22時35分新宿駅へ第三陣を見送る。ご遺族の方達とも対面する。三村君の両親を相当探したが遂に見つからず。出発後、在京委員にて会員への通知並びに資金カンパについての打合せ会を開く。
 5月2日、葬儀日取り等決定する。4日お通夜、5日告別式とする。
 20時11分、上高地号にて山越君の遺骨新宿駅到着。小沢、原口、山本、三村、小島、藤田、牧野、吉田の参加隊員8名と長久、上曽、岡野、佐藤、内藤、渡部ら救援隊員6名とに見守られて降りてきた。三村君はそのまま病院へ。ホームは折から山へ向かう登山者でごった返しているので東口改札を出た地下道に多数の会員や山越君の勤務先の人達が出迎えた。兄さんの手に抱かれた遺骨の箱の白布が目に染みるようだ。義兄の長谷川氏の謝辞があり、次いで代表長久氏の挨拶の後自宅へ向かった。
 5月4日、夕刻よりお通夜。遺骨の安置された前には写真(冬の鹿島槍での山越君の勇姿)が飾られ、ひとしおの思いを深くさせられた。最後に我々山仲間が残り追憶談。ご尊父の希望で山の歌をと言うので雪山賛歌の合唱。骨となった山越君へも聞こえたことであろう。
 5月5日、10時より11時まで自宅にて告別式。会社関係、友人知人、近隣、もちろん我々会員等焼香者引きも切らず。終わって近くの八千代寿司の二階を借り反省会を開く。出席者37名。長久君、小島君から遭難状況の説明があった。

山越君の遭難に思う
宮坂 和秀

 山越君が雪崩にやられたという情報を聞いて愕然としたのは私のみではないと思う。とうとう彼は逝ってしまった。惜しい男であった。彼は身をもって私達に指針を与えてくれたのである。遭難は絶対避けなければならない。親、兄弟、妻子等に再び哀しみを与えてはならないからである。私達は山をより研究し避け得られるべき事故は無くすよう心掛けねばならない。
 山越君の遭遇した雪崩は避け得られたものだろうか?結論から先に言うと避け得られたものと判断できる。天狗沢は一番雪崩の多い沢であるということはリーダーの山本君の経験からすれば知っていた。彼は常に雪崩を念頭に置いて行動していたのである。
 それならば何故避けられなかったと陽とは言うであろう。畳岩からブロックが崩れた瞬間、彼は「雪崩」と叫んでデブリの予想ルート前でストップ、右の天狗尾根側へ退避したつもりであった。ところが不運にも一つの雪崩は畳岩下のリッジによって二つに分かれ、下のルンゼのものは避け得たが、続いて迫った上のルンゼのものに直打ちを食らわされた格好になってしまった。全く不運という外はない。
 然らば雪崩の多い天狗沢を何故下ったかということになるが、これとても最初から下る予定ではなかった。天候の悪化に伴い危険を承知の上で最短距離として下降路に選んだとのことである。
 彼ら3名の下るのが1、2分遅かったならばこのような事故が生じなかったと思うと、返す返すも残念でならない。
 当会戦後初めての遭難死であるが、二度とこのような事故は繰り返すまい。山を歩く以上、危機がいつでも付きまとっていることを心して歩くべきである。

反省
技術研究部 小沢 正美

 尊い生命を犠牲にしご家族の皆様のみならず、先輩諸兄にまで一方ならぬご心配をおかけしたことを心からお詫び申し上げると共に深く反省する次第です。
 山の事故というものは常に生命に結びついているものであり、歩一歩たりとも疎かにすることはできない。遭難を予知できる遭難などはあり得ない。遭難の多くは予想外の所で起こり、ほんのちょっとした隙でも待ってはくれない。
 部の状況を考えるに、うわべの技術的方向に走り、十数名の部の中で第一に合宿に先立ち部会、準備会に於いて一度も参加者が一堂に会したことがなく、冬山合宿後の部内の空気は沈滞し、成功への熱意と意欲に欠けていたこと、あまりにも盛りだくさんの計画を織り込んだこと、そして研究不足とが遭難の遠い一因を作ってはいないかと...。
 部員各位の強い山への熱意と意欲、普段からのたゆまざる訓練により一層基礎技術を勉強し自信をつける以外にないと思う。

山越君と私
西島 徳充

 山越君の遭難の報に接したのは5月4日、東京からの長距離電話で初めて知り、突然のことで唖然としてしまった。思えば30日仕事で明け方帰り、遭難の記事の出た1日の新聞は読まずに出かけたようである。早速山越君の家に電話し姉さんの久美子さんを呼び出したが、何を言っていいのか分からずしどろもどろの会話になったようである。次に出た会員の内藤君にはつい声を大きくしてなぜ早く連絡せん、と怒鳴りつけてしまった。遠く離れ、山越君が遭難したのも知らず一人のんびりしていたことが腹立たしくてならなかったからである。
 岳沢には私も想い出がある。昭和34年の秋、岡野君らと合宿をやった時、コブ尾根をやり疲労困憊した同僚を囲んでビバークしたが、その翌日は畳岩の予定が狂ってそのまま帰ってきたが、その天狗沢の下りで畳岩の逆層のバーンを見てこの斜面の雪崩はまともに落ちるからよほど注意しなければいかんぞと話しながら降りてきた記憶がある。今眼をつぶるとあの斜面から落ちてくる雪崩が充分想像されてならない。
 山越君とは共に山行した記憶は殆どない。昭和36年7月同角沢の例会で彼と一緒に行ったのが唯一の記録である。その翌月彼と二人で穂高の三峰をやるべく、私は烏帽子から裏銀座を抜けて槍から涸沢で落ち合う約束をしていたが、台風のため烏帽子小屋に3日間閉じ込められ遂にその機会に恵まれなかったのは残念である。その時のザイルの重さが未だに忘れられない。
 昭和35年計画部の例会受持ちとして私は八ヶ岳を選んだが、彼もまた八ヶ岳を愛し、特に地獄谷を好んで登っていた。四季を問わず地獄谷は彼にとって技術の修練の場でもあったようです。雨や雪で登らずに帰ってきたこともあったが、一度計画すると二度でも三度でも同じ沢にぶつかっていった。闘争心の旺盛なことは驚くばかりである。
 彼との山行は少なかったが昭和35年10月委員会に初めてOBSとして出席してからルームや委員会で彼と接する機会が多かった。
 編集の作業を一番手伝ってくれたのは彼である。昭和35年頃の三峰山岳会の低迷期に真剣にも会の発展を考え協力を惜しまなかった。会の運営を軌道に乗せ、今の三峰山岳会を立派に育てたのは彼の功績が大である。
 私の企画したリレー随筆に彼が初めて書いた文がある。
 『去年の山行=三峰に入会して早や1年の歳月が過ぎた。去年1年の山行は一昨年までの個人的なハイキングに比べると量的にも質的にも著しく成長したと思っている。3月に宮坂さんに連れられてオカンの味を覚え10月、11月に長久さんや岡野さんにお供して高山の味を覚え、また去年の暮れから正月にかけてスキーを覚えた。これらはいずれも楽しい思い出となりまた勉強になったと思っている。これ等の山行を土台にして今年はより高い目標を抱いて精進したい。』No.145 35.10.20
 昭和35年頃の彼の記録は殆ど低山であったが、彼の登山意欲の旺盛なことは驚く。彼の登山歴はそのまま三峰山岳会の発展史であり歴史でもある。
 岩つばめの編集と記録とを長い間やっていたのでその記録をここにまとめてみた。

略歴
S34年2月三峰山岳会入会
S34年10月16日委員会にOBSとして初めて出席
S35年12月20日技研部発足 入部
S36年1月委員 計画装備担当
S37年1月委員 計画装備担当
技研部リーダーとなる
S38年1月委員 企画担当

登山歴(岩つばめより調査)
大岳山、雲取山、乾徳山、川苔山(入会前)
丹沢板小屋尾根より檜洞丸(例)S34-3-21~22
丹沢三峰S34-5-10
陣場山S34-5-18
二本杉峠S34-6-21
丹沢神ノ川S34-7-12
笠ヶ岳、白毛門S34-8-11
神山キャンプS34-8-16
丹沢畦ヶ丸S34-9-6
八方尾根より唐松、五竜岳(例)S34-11-1~3
丹沢セドノ沢~新茅沢下降S34-12-6
蔵王スキーS34-12-29~S35-1-4
雁ガ腹摺山(例)S35-1-15
茅ヶ岳S35-1-24
八ヶ岳阿弥陀岳S35-2-14~15
湯沢スキーS35-2-21
谷川スキーS35-3-6
湯沢スキーS35-3-12
乾徳山と黒金山S35-4-10
刈寄山、今熊山S35-4-24
燕岳から大滝山縦走(例)S35-5-1~4
丹沢勘七沢S35-5-15
丹沢同角沢(例)S35-7-3
八ヶ岳赤岳S35-7-10
八ヶ岳地獄谷本谷遡行S35-8-7
北アルプス涸沢S35-8-13
上州武尊山(例)S35-9-10
鹿島槍~五竜岳(例)S35-9-23~25
八ヶ岳地獄谷偵察(例)S35-10-23
鹿島槍偵察(例)S35-11-3~6
八ヶ岳天狗尾根S35-12-4~5
八ヶ岳地獄谷S35-12-26
鹿島槍ヶ岳(例)S35-12-31~S36-1-4
正丸峠伊豆ヶ岳S36-4-2
丹沢屏風岩山S36-4-9
谷川マチガ沢本谷S36-4-23
後立山連峰縦走(例)S36-4-29~5-6
谷川マチガ沢~万太郎山S36-5-21
丹沢女郎小屋沢(例)S36-5-28
谷川マチガ沢東南稜(例)S36-6-11
丹沢セドの沢左俣(例)S36-7-2
穂高涸沢合宿(例)S36-7-21~24
八ヶ岳大門沢S36-8-13
穂高奥又白(例)S36-9-23~24
奥武蔵丸山S36-10-29
南アルプス聖岳S36-11-3~6
富士山合宿(氷雪訓練)(例)S36-11-25~27
八ヶ岳地獄谷(例)S36-12-3
三ツ峠岩登りS36-12-10
南アルプス聖岳(例)S36-12-31~S37-1-6
八ヶ岳地獄谷権現沢S37-1-14~15
石打スキー(例)S37-2-4
岳スキーS37-2-11
三ツ峠岩登りS37-3-18
丹沢水無川本谷(例)S37-3-25
八ヶ岳地蔵岳権現沢S37-4-8~9
穂高岳沢合宿(例)S37-5-2~6
八ヶ岳地獄谷権現沢右俣滑滝ルンゼ(例)S37-5-27~28
八ヶ岳大門沢(例)S37-7-15
谷川岳幽ノ沢右俣S37-7-22
北八ヶ岳岩場合宿S37-9-22~26
谷川岳幕岩Bフェース(例)S37-9-30
谷川岳一ノ倉沢S37-10-21
八ヶ岳権現沢右俣正面ルンゼ(例)S37-11-3~4
谷川天神平スキー(例)S37-12-9
奥多摩つづら岩(例)S37-12-23
穂高合宿(又白谷より奥穂)(例)S37-12-30~S38-1-4
菅平根子岳ツアーS38-1-13
富士山氷雪訓練合宿(例)S38-1-23~27
霧ヶ峰車山ツアーS38-1-28
中里スキー(例)S38-2-3
石打スキーS38-2-17
八ヶ岳権現沢三ッ滝ルンゼ(例)S38-2-24
越沢バットレスS38-3-17
中里スキーS38-3-27
穂高岳沢合宿(天狗沢にて遭難)(例)S38-4-28~30

以上


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