山行日 1964年2月28日~3月2日
メンバー (L)小島、長久、岡野、原口、野田、花岡、溝越、牧野、内藤、小池、浦島、他2名
オリンピックで優勝したトニー・ザイラーという2mあまりの下駄を自由に扱う人が数年前に来日し、黒い旋風とやらを巻き起こして以来、スキー人口がやたらと増え、猫も杓子もスキー、スキーと騒ぎ始めた頃、俺も人の子巷の子、日本人らしく群集心理が手伝ってか友人に誘われるままに、あの長い板を履いて雪の斜面に立ってみた。それ以来、俺もザイラーやイガヤやミウラユウイチロウのようになったろうかと、このスポーツに病みつきになって今回遂にスキー合宿という大それた計画をしてしまった。何事も先のことを考えて行動しなければダメダヨネ!と後悔しても遅かった。
仕事の都合で全日参加することが出来ず、3月29日の夜汽車で菅平に向かった。
3月1日(晴)
今シーズンの俺のスキーにしては珍しく好転に恵まれ、菅平でバスを降り同行の花岡、溝越、牧野と一緒にソバを食べ、小林館の裏手に張ってあるというこれからの宿舎であるテントに向かって歩く。近くに根子岳がなだらかな斜面を見せ聳えている。約15分くらいでテントに到着。先に来ていた野田氏らの出迎えを受け、旅館に泊まっている長久、岡野、内藤氏ら、それに浦島嬢に挨拶した後、テントに帰って一休みしようかなと思ったが、岡野氏の直ぐ用意をして練習に行こう!と言う[何てったって思うように行かねえ(陰の声)のが世の中だよね]。裏ダボスのゲレンデに行き、斜滑降からのクリスチャニア、直滑降からのクリスチャニアの練習をする。車もハンドルとブレーキが効かないと大変なことになると同様スキーもまた思った所に曲がっていき停止するということが出来なければゲレンデには飛び出せないんだと思って、これも基礎だ長島も金田も基礎ができていなければ今のような大選手にはなれなかったろうと変なことを思って一生懸命練習するが、人間というやつは同じことを何回もやるということは肉体的に疲れるより先に精神的に参ってくるモノダヨネ!
天気が良くても何か眠くて仕方がない、コンデションは全く良くない、午前中の練習を終え午後から練習場を変え、各人各様の練習をした。気分直しに洗濯板のようなギャップのある裏太郎という浪曲家のような名前のゲレンデを滑り降りたが、思ったほどの物でもなく何か物足りなかった。昨年に比べ斜面も緩く感じられ、また距離も短く感じられる、それだけスキーに馴れたのだと思って少し嬉しくなった。
我々テントに泊まる5人は夕食の準備があるので岡野氏らより一足先に滑り降り、夕食の材料購入のため、菅平の部落を銀ブラらなぬスガブラと5人でよたる。購入した材料でうまい食事をした後、例によって雑談に入る、何しろ鬼ような方は旅館に居るので、皆勝手なことを言って談笑する。天幕生活の一番良い時である。明日天気が良ければ根子岳に登るからとの岡野氏よりの連絡を受け、皆期待と不安の混じった妙な気分で眠りについた。
3月2日(小雪)
昨夜雪が降ったのかテントを揺すると雪が落ちる音がする。入口に近い人に天候を聞くと、ガスっていて根子岳行は無理だろうとのこと「中止デスヨ、コノテンキデワ」と皆ホッとしたようなガッカリしたような気持ちで朝食を食べた。朝食の途中で原口、小池の両名が到着。その後、昨日の午後練習した場所で練習する。いくら練習しても思ったように滑れない、全く頭にくる。しかし、俺はスキーで金儲けするんじゃねえからいいや!と思い自分を慰め滑ったが全くイヤニナッチャウネ!他の人はと見ればこれまた、山回りクリスチャニアを反復練習している、ゴクローサン。
午前の練習終了後、反復練習するよりも勝手に滑りたいねと天幕組が言うので、早々に昼食を済ませ岡野コーチには申し訳ないが、ガスに紛れてトンズラ、鬼のいぬ間にと皆勝手に滑り出した[(陰の声)何てたって先生に隠れて悪いことをするってえのはイイモンダネ!]。
俺は本日帰京しなければならぬので、最終日まで居る『脱走者』達と別れ帰幕した。「岡野さん、一生懸命教エテヤローとしている気持ちを裏切って、本当にスミマセンでした」帰りの準備をしてバス停に行こうとしたら、長久氏も帰るとのことなので一緒に帰京した。