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創作 山へのプロローグ
或る単独行者

 ある日、急に山へ行こうと思い立った。早速その日の夜行で出かけるべく支度をする。土曜日のこととてホームは避難民のように乗客でいっぱい。先頭の方から次々と新聞紙を敷いて、あたかも浮浪者のように寝込んでゆく。向かい側の電車を待つホームから、人々が何の感興も催さずこの光景を眺めている。魚河岸に横たわるマグロのような登山者達も、向かい側のホームに立つ時は別人のようにシャンとしている。そして街を歩く、とり澄ました偽善者的な人達も一たび我々の境遇に甘んじると、浮浪者のように背を丸くしてうずくまる。時と場合によって人間の心理状態はこうも変化するものであろうか。そこには明らかに対照的な光景がある。
 レールが軋む音、蜜柑の皮のすえたような甘酸っぱい臭い、風の中に舞う紙屑、食うために働く人々、騒雑...。
 『これ等の面倒をいっぺんに吹き飛ばすために』山へ行くのだろうか。また『これらがなければ』山へ行けないのであろうか。人々は生活するために働き、人と争い、そして人と人とが目に見えない納豆のようなネバネバした糸でがんじがらめに縛られている。考えてみれば社会には不幸な人が大勢いる。私達は山へ行けるだけ幸せだ。そう自分自身に言い聞かせる。列車を待っている時、見知らぬ会社員風の男に声をかけられた。『どちらへ?』『ちょっと〇〇〇まで...』『そうですか、いいですね、気を付けて』わずか数秒の会話であったが、相手の羨ましそうな顔と共に鮮やかに印象付けられる。
 列車がホームに入るアナウンスがある。長い時間だった。しかし、過ぎ去ってみれば短い気もする。今までしびれを切らしていた行列が急にモソモソ動き出す。二列乗車励行を躍起となってアナウンスする。先頭にディーゼルカーを取り付けた列車が、発電所のような轟音を出しつつホームに入ってくる。ブレーキの軋る音、前へ行ったり後ろへ戻ったり、乗客を馬鹿にしたように焦らす。やがて乗車の合図があり、静かな闘争が始まる。列の最初から最後までピンとした空気が伝わる。大きな荷物が小さな入口に殺到する。肩をこずいたり、足を踏んづけたり。二列乗車を守らないだらしなさは各自知ってはいる。しかし、目に見えぬ力が我々を後押しする。僅かの間だが理性を捨て野獣のような本能をむき出しにする。当然、闘争力の強い者が勝つ。私は後ろの方なので半ば諦め切った顔で囚人のようにノソノソと進む。
 列車の中はそれこそヤッチャ場のような騒ぎ。仲間と連れ立ってきた者は、この時こそとばかり我が物顔に席を占領する。その傍若無人さに一人で抗議しても、もはや受け付けられない。今まで一つの集団と思われた群衆が一たび利害関係をともなうと暴力となって分散し、支離滅裂、車中を旋風のように荒れ狂う。また弱小な力である単独者は遠心力から離れた隕石みたいに、弾き飛ばされてしまう。幸いにして私は席を取ることができたが、この光景を憮然と眺めて静かになるのを待つしかなかった。やがては静かになり、立っている人ももっと少なくなるであろう。そう思っているうち列車はホームを滑って行った。目的地まで静かに眠ろう。
 先ほどの台風のように荒れ狂った後、これから山へ行くんだという、満ち満ちた平和が訪れたような気になっていく。


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