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初山行
小沢 正美

 初山行だって、夏の磐梯山だった。高校2年の夏だもんな。一昔も前の話になるなあ。中学同級のT、Kと俺の3人だった。
 当時の俺達には山の知識なんぞ全く無くて3人共、登山帽にズック靴、首に手拭、そして借りもののザックに真黒の軍隊帰りのハンゴーをぶらさげ、上に毛布をまるめて背負ったが重かったなあー。何しろ1週間分の食料、野菜と缶詰類でいっぱいだったもんな。
 飯か、みそ汁とカレーしか出来ず、毎日カレーだったね、よく食ったもんだよ。
 隣の女の子のパーティなんかが天ぷらか何かやっていたね、羨しかったよ全く。匂いなら負けじとカレーのナベをシブうちわであおいだね。くやし涙か、煙が目にしみたか涙とススで顔中くしゃくしゃになってさ。
 だから天幕などなかったね。雨の降るのも風の吹くのも考えず、木の枝でも切って小屋を作って寝りゃいいなどと真剣に考えていたんだから...全く自分勝手で、今思い出すとおかしいやら、そら恐しいやら、いやはや。
 キャンプサイトは檜原湖の東岸、2、3の小島の点在する剣ヶ峰というススキとカンバの林の小高い丘だった。
 そこここの天幕からは夕餉の紫煙が昇っていた。真赤な夕やけ空に磐梯山のシルエットが刻一刻と夕やみにつつまれて行くその様は実に素晴らしい一時だった。翌朝早く、小舟で檜原湖を渡って、ホテルの裏より小道を山頂へ急いだ。
 眼前に広がる爆裂口の岩壁の大屏風に目をみはり、土砂と岩石で埋まった赤沼の広大な亀裂の原に、吹き出る白煙と臭気に驚き、当時の爆発の物凄さを想像しては、ただ「凄げーなあー」と溜息をもらしたものだった。火口壁に沿って、やっと八合目の「弘法清水」に這い上った時は正にグロッキーだったっけ。
 鎖にすがり。岩を攀じって這い上り、手をにぎり合った頂上での感激は紙筆では表せぬほどだ。脚下に猪苗代湖が鏡のように輝き遠く那須、日光の連山が連なっていた。
 北側は、足元より赤く焼けただれた岩壁が切れ落ち、火口が大きな口をあけ、赤茶けた溶岩帯がべ口を出しているようだった。
 はるか下方の緑の樹海の中には。檜原、小野川、秋元湖と湖が点在し、吾妻連山、安達大良の山々が囲うように連なっていた。すばらしい眺望だった。
 次の日も快晴で、ススキの原を朝露踏み池塘をぬって五色沼にうつった。
 「バンガローが満員なら俺んちの座敷へ泊れや」と売店の親父が言ってくれた時は嬉しかったね。これ幸いと泊めてもらったよ。親父も娘さんも親切だった、次の日。娘さんの案内で五色沼めぐりとなった。コバルト色の湖面にボートを浮かべたびしゃもん沼、樹間に静閑と赤沼、湖面一ぱいにハスの茂った青沼、葦の間に満々と水をたたえた沼...コバルト、緑、濃紺と湖で変る湖水の色に驚き、気を引かれるままに沼々を廻ったっけ。
 そして次の日は秋元湖より中津川渓谷へ。湖畔の発電所前より木材搬出のトラックに乗せてもらって朝もやの立ち込めた湖畔を塗って、中津川に入り、しばらく断崖の林道を渓谷沿いに入って集木場となっている広い河原でトラックを降り、トロッコの軌道を進めば足下に両岸は狭まり、白飛沫が飛び真白に磨きあげられた滑滝が続き、青々と瀞となってはゆっくりと流れ、時には滝となって真白な大きなお釜を掘り、滑滝とお釜と瀞の連続する渓谷の美しさに俺達は奥へ奥へと引きこまれたっけ。再び満載のトラックの屋根に乗せてもらって渓谷沿いの林道をゆらりゆらりと下って夕ぐれの秋元湖畔をゆられたっけ、今日で終りという日、裏磐梯と分かれて猪苗代湖畔の野口英世記念館見学とあいなった。そまつなわらぶきの生家は正面に湖が広がり背後には青々とした稲田が風になびいて雄大¨な磐梯山が見上げんばかりにそびえていた。白い夏雲がゆっくり流れていたっけ。
 初めて自然にふれた若き日の山旅だ。今でも忘れられないね、6日間の思い出多い山旅だった。 次は小島君にリレーします。


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