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父不見山
椎名 絹枝

山行日 1966年6月6日
メンバー (L)椎名、山本(敬)、佐藤(史)

 深田久弥さんの文で読んで以来、一度行ってみたいと思っていた父不見、神流川の流れを見下ろしながらバスは何処までも川筋を遡って行く。この辺りは三渡石の産地であるが、近頃の石ブームで掘り尽くされ、それらしい石はほとんど見えない。自然は自然に置いてこそ美しいのに。
 山麓の部落で遭った孫を背負ったおじいさんは言った。「テテメージは岩もネェしつまらねえ山だが」テテメージ、この呼び方をどんなに聞いてみたかったことか。けれどおじいさん、今日は岩など必要ではないのです。ただ低山の静けさを味わいに来たのですから。
 文字通り道草のモミジイチゴの実、桑の実等を口にしながら6月最初の月曜日、薄日射す低山歩きは呑気だった。山腹の半ば以上まで来ている畑道を辿り、稜線近くなった頃何度か道を失い、白い山藤のこぼれる稜線近くの藪を漕いで登ったり下ったり。迷子になっても平気でいられるのも低山の良さかしら。
 長久保山頂には2時に着いた。湿り気を帯びた黒土、まだ蕾の何本かのキスゲ、小松。西に開けた所からは両神山の岩砦が淡いグレーにぼかされて見える。
 父不見山は北東に少し下って同じくらいを登り返した尾根続き、落葉の深く積もった柔らかな踏み跡を15分ほど辿った所。頂には"三角天"と刻んだ石がひっそりとあった。展望はあまり利かず、深田さんの文では長久保山より父不見の方が展望が良いとあったのに、その頃より10年近く経た今、山頂のたたずまいも変わってしまったのだろうか。変わったことはまだあった。ゴミ屑である。さすが量こそ少ないがあちこちに散っている。こんな静かな、優しい山を訪ねる人がどうして...。
 しかし、どんな山でも山頂には、懐かしく嬉しく、また名残つきず立ち去り難い思いがある。
 山頂を辞してかすかな踏み跡の尾根を行き、杉の峠の亭亭たる大杉を見上げ、バス停には4時過ぎに。
 今日の満足を胸一杯にして神流川に架かる橋の欄干に腰を掛け、オセンベイをかじっていたらバスに置いて行かれてしまった。


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