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思い出の山 秩父の記憶
長久 鶴雄

 山に行きたい、いつもそう思いながら明石に来てからは近くの六甲山すら何となく行けなくなってしまっている。しかし、山恋の想いが消えてしまった訳ではない。あの山、この峰、若き日の思い出は尽きることはないが五十路を越えて不思議と思い浮かべることは秩父の一人旅でした。山好きな孤独なロマンチストなのであろうか、ほんとに秩父は良かった。
 凍てついた冬の雲取の三角樓、全山燃えるが如き両神の八汐つつじ、小雨にけぶる大洞源流の原生林、そして信州峠から金峰に到る絢爛の錦、しかもそこには人情がある。その昔、今はなき小暮理太郎先生の奥秩父の思い出は私の座右の書であった。

①日の丸とダルマのこと
 抑沢峠を越えて暗夜の道を独り落合に向かって下る。道路下事で道が広くなったり細くなったり、やがて裂石で聞いてきた泉屋という商人宿の軒燈がそこだけ煌々とした落合部落に入る。
 やけに白くぬった女が出てきて案内をしてくれ、深夜というにわざわざ風呂までたてて50銭で泊めてくれるという。お客さんは東京の人かねということで始まって、すっかり夜更かしをしてしまい、どうせ一人旅の気安さ翌朝はゆっくりと出発した。風呂に入ってちゃんと二枚重ねの布団に寝て、朝飯を喰ってニギリメシの弁当までつけて50銭は当時としても、また格別に安かった。
 つま先登りに犬切峠に向う。犬切峠のいわれも今は忘れてしまったが、やがて一の瀬部落を右下に見る道のすぐ下に小さな分教場があった。その日は秋季皇霊祭(今の秋分の日)だったのであろう、校庭に日の丸の旗が高々とはためいている、その色がいかにも鮮やかで思わず足を止めた。この分教場の先生は一の瀬のお寺の和尚とその裏方で、終戦後会でここを訪れた時、一泊の便を図ってもらい家族一同と宴会芸なぞやり大変もてなされたこともあった。
 折り悪しく朝から今にも降り出しそうな天気で犬切峠に立った時はただ白一色のガスの中であった。そこだけが広場のように切り広げられた中に東京市水源涵養林とかいう棒杭がお化けのようにボォーと立っている。突然音もなく、ガスの中から黒い人影が浮かび上がって「......」「今日は生憎ですね、日の丸っていいですね」何で私はこんな挨拶をしたのだろうか、相手はしばし沈黙「見回りかね?大変だね」さあ今度はこちらが沈黙の番だ。棒杭を見て、ああ成る程と間の抜けた合点がゆく「いや、和名倉山に登るんだ」「趣味もないのに何しに行くんだね」面白くもないのにということらしい。「ゆんべ何処へ泊まった?」「落合の泉屋だ」「ヘエー、ダルマがいたろ」「ダルマ?遅かったので判らなかった」相手はニヤニヤ。それから間もなく私は将監峠の長い登りを親不孝雨(大したことないと思っているうちにぐっしょり濡れてしまうような雨)に濡れながら、日の丸の色を再び思い浮かべていた。私は当時こんなに純情だった、後日ダルマの何者なるかを知って、あああの時は我が青春のピンチであったんだなーと思った。

②将監峠から狼平へ
 将監峠の夜は半月の月が笠取山の上にかかって和名倉山の黒々とした原生林が思わぬ間近に迫り丈の低い熊笹の原の中に一人立っていると、子供の頃絵本で見た山中鹿之助の物語りの絵の中にいる如く、やり切れない淋しさと恐ろしさが交互に押し寄せてくる、早々に小屋の中に引き上げて一晩中パチパチとはぜる囲炉裏の火を見つめていた。
 飛竜の岩峰上を大きく舞っていた鷹、そこから見下ろした谷の深さ、飛竜の南側をトラバース気味に行く縦走路は原生林に覆われてヤブレガサや大シダの葉末に昨日の露が真珠の如き水滴を一様につけていたし、不安定な桟道の足元にもつやつやとイチヤク草の葉が光り、ヌルデの効用が早くも始まっている。どれもが一人旅を満足させてくれるものであった。三ツ山の裾を廻るとやがて一面のカヤトの狼平に出る、緩い傾斜で長々とそのカヤトは続いてその先に一際突き出したように雲取のピークがある。目の前のカヤトが急に風でなびくように移動していく、目を凝らして見ると茶色の兎の群れであった。これは秩父の幻想かと思われるばかり。

③全教先生とガマ仙人と三峰神社のこと
 狼平で寝転んでいると三ツ山の尾根からふって湧いたように坊主頭に鉢巻脚絆にワラジという薄ぎたないおやじが下って来て、何となしに一緒になったが、彼は原全教氏であった(当時、奥秩父という上・下巻の本を執筆中)。「今日は、大洞川を遡行して三ツ山に出ての帰り、稜線近くで女の自殺死体を発見したから大輪の警察に連絡せねばならないので相すまぬが手を貸してくれ」とのことである。この人が原全教かという驚きで二つ返事で承知して武州雲取小屋まで一緒にかけ下るはめとなった。武州小屋にはこれまた、変わり者が上がって来ていて、彼がガマ仙人こと富田老人(当時は若かった)であると紹介される。何でガマ仙人なにのか私は知らない。後に彼は正式に東京市の職員とし武州小屋の番人となりいつの間にか、登って来て居着いた尼さんと夫婦になったと聞く。当時この小屋の管轄が東京府か埼王県かでもめていた。玄関と便所は東京府で主家は埼玉県、水は埼玉県からとって排水は東京府。埼玉県は予算不足で東京府は小屋不要ときては決まらないのが当然であった。
 余談はさておき、このガマ仙人は宿泊者を一応イロリに集めて寝る前に説教する。今でいうユース・ホステルのミーティングだがこれがふるっていて、出席しないと叱られたものだ。当夜の全教氏は特別なので、私一人がその対象とさせられてすっかり煙にまかれることになる。
 翌朝からガマ仙人の後について三峰神社まで駆け下ったがその速いこと。神社で無事連絡を済ませ、検死の警察と仙人が再び山に帰るのを見送ってその夜は神社の房にお世話になる。
 三峰神社は昔から信仰の山で講中の泊る広い房がある。就寝時間ともなれば小坊主のような雑式が6人分くらいもある長い敷布団を担いできて、絨毯を敷く時のように転がして延べると一人がポンポンと枕を6人分、掛け布団6人分をその上に放ってお終いである。食事は一人分ずつ高足膳で田舎の法事の如し、便所がまた壮快、12人分長屋形。下方は全部共通の天然水洗(川)で、しかも落差が20m近いので行為中は爆撃の気持ちである。若かった私には、三峯神社は全く驚きの連続であった。

未筆
 私の秩父には色々と思い出が多い、秩父の思い出が他と違うのは山そのものばかりでなく、風物が必ず人情と共にあることだ。それは20余年も前のことだが、秩父はそんな山であった。今はもう変わりに変わったことと思うが私が再び秩父を訪れるとすればやはりこれまでの思い出を大切に抱いて放浪するに違いない。そんな姿を今の若い岳人は変わったヂーサンと見るに違いない。私はその岳人達に会ったら、犬切峠の老人の如く「趣味がないね」と言うかも知れない。


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