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滝谷
野田 昇秀

山行日 1967年9月15日~18日
メンバー (L)小島、野田、別所、斎藤

 何年か前、槍穂高縦走の時、恐る恐る眺めた滝谷。その切り立った岩壁の中に人影を見つけた。赤いザイルに結ばれたクライマー達が私の脳裏に焼きついて離れなかった。それから何年か経ち、ルームで滝谷の話が出るたびに私はあの時の光景を思い出していた。
 誰か私を滝谷の岩場へ案内してくれないだろうか。たった1本でよい、最も易しいルートでよい、私の願いを叶えてくれないだろうか。しかし、私から行きたいと話し出すほど自信はなかった。もっと練習して自信をつけてからと近郊のゲレンデに通ってみたものの、小さなホールドに胸をときめかせ、スタンスにかけた足はすぐ震えだす。なかなか思うほど成果は得られなかった。
 夏が過ぎて秋になった。もう今年は駄目であろうと諦めていた時、小島さんに滝谷へ行こうと声を掛けられた。技術不足はどうしようかと多少の不安があったが、でも小島さんとは長い間ザイルを結びあってきた仲、谷川岳に北岳に、穂高岳にと幾多の苦しかった登攀に素晴らしいリーダーとして活躍した彼、今一度私が甘えても決して見捨てるようなことはないであろう。お願いします、私の願いを叶えてください。
 滝谷の第二尾根は何とはなしに登ってしまって、これで滝谷を登ってきたと報告するには少し恥ずかしかった。落石の激しいC沢左俣を下ってスノーコルに上がると第四尾根の取付点である。コルから2mほどの岩を乗越すと100mほど緩い稜線をザイルを巻いたまま歩いた。時々ガスが切れて見える滝谷の灰色の岩壁がやけに恐怖心を募った。特にグレポンの怪奇な岩塔が私の闘志を鈍らせてしまった。あのグレポンを登る人もあるというのに私は第四尾根の取付きで震えている。何という違いであろうか。
 Aカンテは脆い岩場でした。掴むホールドが簡単に剥がれ、慌てて押さえつける。Bカンテは別所君が越えた。続くリッジは快適そのものであった。私達が三角と名付けたCカンテも別所君が越えた。次々と現れる難関も友がみなトップを引き受けてくれた。憧れの滝谷来てトップで登れない淋しさが胸をいっぱいにする。でも私にやらせて下さいという自信はなかった。ツルムの頂上に立つ頃、太陽は西に沈んでいた。夕暮れの中をピッチを上げて傾斜の強いフェースからクラックに入り狭いチムニーをやっと出ると日はとっぷりと暮れて星が瞬いていた。Dカンテへ回り込む時はホールドもスタンスも皆目判らなかった。ガリーに入り込んでビバークの場所を探したが見つからなかった。別所君がヘッドランプの光を頼りにオーバーハングを越える。落石が唸りを生じて飛んでくる。ガツンと音をたてて斎藤君のヘルメットに石が当たる。手探りでオーバーハングの下まで登って行った。真っ暗闇の登攀は友の確保してくれるザイルだけが頼りであった。手探りでホールドを探し、二~三度確認してから足を動かす。脚の方まで目が届かなかった。適当に足に体重をかけて登って行った。3点確保は嫌でも忠実に守らなければならなかった。ハングを越えて岩陰から踊り出ると満月が煌々と私達を照らしてくれていた。第四尾根は終わった。その上の草付も用心してコンテニュアスで登り稜線に出た。「やった」「ありがとう」と握手を交わしたのはもう午後8時を回っていた。月明かりを頼りに北穂と涸沢岳の鞍部からガレ場を下っていった。念願の滝谷を登り終えた私には嬉しさで疲労は感じられなかった。口笛を吹きたくなるような満足感が身体中に溢れていた。トップで登れなかった淋しさはもうなかった。ザイルに結ばれた4人の友情、小島さんの信頼感、別所君の猛烈なファイト、斎藤君の若さがどれも頼もしく思われてならなかった。
 行動が深夜に及ぶ、振り返ってみると過去にも幾度かあった。越後三山の時、絶望的な朝日岳の時、それに今度と、計画が甘かったのではないだろうか。今後このようなことのないように反省したい。

〈コースタイム〉
9月17日(晴時々ガス)
BC発(5:35) → 滝谷下降点(7:20~7:45) → 第二尾根取付点(8:20~8:45) → 第二尾根終了(10:45) → C沢左俣下降開始(11:35) → スノーコル(12:40) → 稜線(20:20) → BC(涸沢)着(22:10)


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