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我が会を顧みて
西島 徳充

 岩つばめが発行され延々と続いて遂に200号を迎えると聞いてびっくりしました。その上、例会山行回数が1000回になると聞きました。昭和8年10月に会が発足したのだからそこには35年という長い年月が歴史を持って秘められている訳です。35年といいますと私の年と大体同じですから、私の生い立ちを振り返ってみて、その歴史がいかに長いか実感として分かります。その上、34年の秋から37年の春まで編集を受け持ったので、会報を発行する苦労が理解できたし、200号という意義の深さを身体から感ぜられます。恐らく創立当時から会と共に歩んでこられた宮坂会長、長久、見沢大先輩の胸中は感無量であろうかと察する次第です。
 私が編集を受け持っていた昭和34年11月に太田晃さんが退会され、その時「退会の辞」の一文を会報に載せましたが、その中で「会報にしても検閲の厳しかった支那事変以後、迂闊なことは書けず、このため昭和12年頃当時委員長であった私は代表者宮坂君と警視庁に呼ばれ取り調べられたこともあった。」と書かれていますが、戦時中は紙不足に悩まされたり、会員の出征や疎開などで皆んながバラバラになったり、戦後の混乱期など会報を発行することが大変な大事業であったろうと想像します。私もその時は生きるだけで精一杯だったと思います。一口に200号という量も大切ですが、その内容である会に質を考えるとき、三峰山岳会の本当の誇りがあると思います。運営一つを考えても、三峰山岳会は職場や学校の違う人達が山を愛することを共通の目的として集まったわけで、十人十色の意志の集まりを運営するということは非常に難しかったであろうと思います。それを「会員の和」を重要な目的として今の三峰のカラーを作りながら皆で協力して発展させてきたわけです。勿論活動が停滞して解散総会を開いたこともありましたが、そんな困難にも耐えて発展してきたことはやはり会として大切なことだったと思います。
 三人寄れば山岳会と言われる今日この頃、山頂はゴミの山、高山植物は荒れ放題であり、経験不足なリーダーによる遭難事故が後を絶たない状態です。三峰山岳では必要に応じて技術部を発足させて、登山技術の向上を図ったり、準会員制度を採用して沢登りの基礎や岩登りと一通りの基礎を学び、会として保険に加入したりして真剣に山に対処しています。この姿勢が三峰の良さであり、地味であるが今日の三峰を作ってきたのであろうと思います。
 私の入会は32年の秋でした。それまで奥多摩山岳会に入っていて、奥多摩や秩父を中心に歩いていましたが、宮坂氏と職場が一緒だったことを機会に入会させていただきました。最近はなかなか山に行く機会がありませんが、三峰祭りには是非参加して、皆さんの元気な顔を拝見させていただきたいと思っています。
 1000回記念山行、何処に決まるか分かりませんが是非参加したいと思っています。
格言......
 古代より必要なるもの
  苦難の道を経て今日に至る
   これ世の中と言う


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