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思い出の山
春田 正男

 私は山を歩きながら今更のごとく人生について考える。人間の一生を「夢のごとし」という言葉もぴったりと今初めて胸に響く。
 私は草山、岩山の上に立って山を仰ぎ、川を眺めてみると、野は麦も光り、菜の花も光っている。草山の上には雲雀も嗚いている。
 すべてが昔のままである。
 私は更に草山を越えて、草山に佇む。そこにも昔のままの小径が横たわり、昔のままの遠い山の村が見出される。すべてが昔のままである。しかし私はただ独り赤土の山径を下り、草山を歩いている。山も川も雲も弧独であり空虚である。山を越ゆれども、越ゆれどもただ白い雲が漂い、遠い町のみが横たわる。私を待っている弧独である。今日も弧独であり明日も、更に永遠に孤独は私を待っている。皆んなもまた私と同様にいつかは、頭に霜をいただく日も感じるであろう。そして弧独な人のごとくその草々の赤土道を吐息しつつ辿るであろう。私はくる日もくる日も山を眺め、山径を眺めては疲れ、人生に疲れ始めた自分の心を痛ましく思った。強く生きなければならぬと思う。しかし遠い旅を歩いてきた様な肉体的にも精神的にも、はかない疲れを感じては、煙る山を眺める。生きている限り人間には何等かの形が執着があるらしい。世を捨てても世を避けても執着に取り残される。生きていくということは執着そのものである。
 昨日の私は既に無い、一年前の入生、一日前の人生も既に無い、存在するものは現実の刹那のみがあるだけだ、一切の過去は無の連続に過ぎない。一切の過去は美しい幻影の連鎖に過ぎない。同時に一切の過去の悲しさ痛ましき幻影の連鎖に過ぎない、実在するものは、懺悔、後悔の現実の刹那のみである。それが人間の一生そのもの、生涯というものである。山にいる間だけは人間界の悲しみと懺悔もいく分忘れることができるようである。
 私は花や若葉の自然よりも、冬枯れの自然に無上の魅惑を感じる。私は山こそ私自身の現在の心に最も近いものを感ずるからである。私は山を歩む、そこに横たわっている苔石も弧独である。風になびいている雑木も弧独である。一茎の草も梢の小鳥も弧独である。空も雲も弧独である。しかし一切弧独なるもの集って、自然界の壮美を創造している。また人生を作り上げている。
 窓の下を流るる川の音を聞いていると、しみじみと古人の言葉を思い出す。「逝く水は帰らず」である。水は無心に流れ、無心に声を発しているのであろうか聞く者にとっては有心の響きである。
 窓から空を見ると月が山の端にかかっている。山は黒ずんで冬のような月の色は冷たく光っている。月のかかっている山から更に一つ隔たった山から更に谷一つ隔てた山の上に二つの星がまたがっている。今夜は星影も稀であるだけに一層山の夜は打ち沈んで感じられる。歩いても、歩いても何処にも人の影はない。山はまた孤独であると言える。


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