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奥秩父抄
長久 鶴雄

独り歩きのこと(古い山日記より)
 その谷は深く、渓流のざわめきが聞こえたかと思うやまた途切れて、高みを行く小径からは覗う術もない。原生林の苔むす道であった。そこだけが突然に開けて幾重にもその尾根を谷に向かって落ち込ませている対岸の森林に明るい日射しを見ると、今日も晴天なのだと思ったりする。
 単独行はあまり好きでない私なのに、何故奥秩父は一人で来るのだろうか。
 そこにはただ一面、原生林に覆われた深くそして複雑に屈曲する渓谷があり、ある時は奔流となり飛沫を上げて苔むす水成岩の間を落下すると見るや釜となり淵となって静まり返る。
 古い倒木に腰を下ろし、枯枝や枯葉を集めて焚き、弁当を使えば最早水音も遠く離れ静かに霧が立ち込めて名も知らぬ野鳥の声と木々の葉擦れの音があるのみ。何処に風があるのか下草の小さな葉が一枚ひらひらと躍る。それらが皆私に話しかけている。私も惣小屋の一夜のこと、山仲間や心に秘めた人のことなぞいつの間にか語りかける。
 霧が足下から次第に木立の中に広がり乳白色にぼんやりしてくると薄墨色の木立は私を奥へ奥へと引き込んでいくような気さえして、急な登りも苦にはならない。ただ熊笹を踏み分ける自分の足音のみ、いつしか小鳥の声も消えて行く手にぼーっと獣の姿、一瞬ぎくりとして近寄り見れば倒木の株であったりする。
 稜線も間近いのか霧が激しく動き、ひんやりとした風と一緒にコメツガの梢からパラパラと冷たいものが落ちてきて汗ばんだ体に心地よい。稜線が近づくと俄かに幻想の世界から引き戻されたように落ち着かなくなってくるものである。小さな磁石と5万の地図を何度も何度も見ることになる。いつしか小径に出ていて、つま先登りの山腹の路には朽ちた桟道があったりして人の気配を感じる。安心感に満ちて寝転んだ頭上の梢から矢のように日の光が八方に散っていく。
 「おめえさんじゃなァ、怖くなったらけェってこいや」「なんなら天目尾根さ登って甲州へ下りな」惣小屋の忌々しいおやじめ!だが私はこうして天目尾根を登った、あの凄まじいほどの谷、少々怖気づいたのかも知れない。でも原生林の尾根も良かったではないか。こう反省したり自らを慰めたりしていると安心感が俄かに人里を恋しくさせてきた。
 忽然と広がる笹原は緩く南に傾斜して西に寄った日の光に笹の葉がキラキラと輝き黄色や白の花が風に揺れる。秩父にはこうした峠が多い。投げだした足先に地下足袋の上から履いたワラジが半分ほど擦り切れてしがみ付いているのが何となくおかしい。
 秩父の峠には、ここ将監峠を始め雁坂、十文字なぞ多くの伝説と物語がある。そんなことを思い波打つ遠山を見ているといつの間にか居眠っていた。
 いつしか牛王院平にも薄暮れが訪れていた。和名倉から越し方の山の原生林は黒々として日は既に破風の肩に沈んだ。今宵は一ノ瀬の何処かに泊めてもらおう!パチパチと粗朶のはねる囲炉裏の火、裸電球の下でボソボソと語るおやじさん。残り物のチョコレートにはしゃいでいつまでも寝ようとしない子供達、そんなことを思うと目の下にある小屋など泊まる気もしない。
 落葉松の林に入る所でもう一度山々を振り返る。再び奥秩父の谷や峰を訪れようと心に期して私は残照の空に擦り切れたワラジを高く投げ上げて一目散に一ノ瀬に駆け下っていた。

がま仙人
 奥秩父のある所である時、私は奥秩父の主と言われる原全教に会った。連れの若者が俄かの腹痛で私は病人を背負って雲取小屋にお供をした。その日は天候が悪く私達が小屋に辿り着いた時は土砂降りの雨に3人とも褌までずぶ濡れとなった。
 当時の雲取小屋は20名も泊れば一杯になるような小さな掘立小屋でした。ここの番人というより、ここに住み着いたとでも言うのか「がま仙人」が主である。
 髪はボーボー、髭もじゃでステテコの如きパッチをつけ、素肌に袢纏を着た異様な姿で炉の前に蓆を敷いて大あぐら、目をギョロつかせて大変な無口、こっちの言うことを聞くだけ、病人を担ぎ込んだのに一言も物言わず、「がま仙人」の名が相応しい。なぜ「がま仙人」なのか?全教師の言うには秩父の暗い沢を好んで這い回り、雨が降ればここに這い上がってきて住み着いてしまったからで誰が付けたか判らないとのこと、しかし「ガマ」に似合わず行動はてきぱき言葉少なくやってのける。「皆んな裸」「女はいない」「褌」「下着」「ズボン」「上衣」と乾かす順を怒鳴るだけ、そして同様にして乾いた順に身に着けたら仙人と病人の服装が入れ替わった。つまり一番先に病人を裸にしておいて自分の着衣を着せ、後は私達と同様にした。成程と感心させられる。翌日は私達の荷物の3人分を背負子に乗せて一足先に三峯神社に飛んで行く。雲取小屋から1時間半ですっ飛ぶとは恐れ入った。
 病人を交代で背負い背負いして御経平まで下るとリュックが一つ道の真ん中に置いてあって紙に一筆「これから担げ」だとさ。成程病人も一人で歩ける、全く察しがいい。ただし、残されたのは私の荷だったのは全くにくい。当時私は若僧で27、8の仙人が凄くおじさんに見えたものだ。
 それから6年、新しくなった雲取小屋を訪れる。相変わらずの無愛想は変わらぬが県営小屋の番人となって役人づらになった。頭は坊主で髭もなくなり痩せて目ばかりギョロギョロ、当時の巡査みたいで親しみがなくなった。登山客を夕食後、全員下の広間に集め「お前らよく聞け、このストーブの煙が吹き出す時は入れ風という、出し風の時は天気が良くなる、入れ風は早く山を下りろ」「水を飲むのは埼玉県だが小便は東京府でやってこい」(当時はまだ都になっていない)その他お説教を1時間近くもやる。お互いに役人にはなりたくないね。あの調子では嫁さんも来まいて(仙人はもう30を超えているはず)なぞと昔の彼を知る私達に悪口をついたり、また心に掛けたりしたものだ。
 戦後10年ほどして3度雲取小屋を訪れることとなった。仙人は相変わらず黙って炉の前に座っていた昔に返っていた。だが異変があった。戦時中、麓の尼さんと何かがあってその尼さんが押し掛け女房よろしく小屋に住み着いていた、つまり牝ガマができたわけ。牝ガマはおとなしいが、今度は「尼ガマ」が便所は東京都!入れ風、出し風だやって御座る。
「いつ結婚したんだ」「知らねえな、こうなっちまったんだよ」と人事みたいに仙人は口をゆがめて笑った。
 何と時代の変わったこと、じっとストーブの陰で昔歩き回った日原川や大洞川の原生林を思い出しているのだろうか。それとも牝ガマの毒気が強いのか、かつて大雲取谷の長沢出合まで切り開いて道をつけたあの逞しさをそこに見ることは出来なかった。
 あの時から20年、私は全教師も「がま仙人」も牝ガマもその消息を聞かない。また雲取小屋を訪れる機会もなく全く知る由もない。風の便りに仙人は雲取谷で自殺したとか。それも定かではない。
 がま仙人、その人の名は富田益次郎とかいった古くから長い間、雲取小屋に住み着いていた変な番人の名である。


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