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塩見岳冬山合宿
桜井 且久
春原 君代
川田 昭一
長崎 由岐子

山行日 1973年12月29日~1974年1月2日
メンバー (L)山本、野田、別所、鈴木(嶽)、川田、桜井、能地、松谷、真木、稲田、春原、長崎

12月31日(アタック隊)(桜井)
 最初の予定では、塩見岳を越えて北俣岳分岐辺りにアタック隊の天幕を設営するはずであった。しかし、初日にバスの都合で尾根取付までしか入れなかったこともあって、結局本谷山近辺の幕営地よりザブザックにて塩見岳・蝙蝠岳を往復することになった。全員、アタック日とあって張り切って一時十五分に起床したが、前夜のうちに材料をしっかり整理しておかなかったのと各自の装備等の不点検がたたって、出発まで三時間近くも経過してしまった。それでも本隊の皆んなに見送られながら「いざ、出発」となると妙な使命感にとらわれて緊張するから不思議なものである。途中権兵衛門沢まではトレースもはっきりあり、軽荷と平担な道だったことも手伝って難なく着いてしまった。しかし、そこから塩見小屋までは、樹林帯の中の急登の連続であり、各自の吐く息は荒くその白さも暗闇の中に一段と映え出したようである。その急登もほんのワンピッチで塩見小屋に到着し、そこで一服していると外は薄明るくなってきた故、いそいで塩見岳へと向かった。天狗岳を過ぎた辺りで意識的に一般ルートを外れて右側に回り込んだので、山頂直下のガレ場の急登を喘登する破目になり、時間的に大分ロスしてしまったようであった。塩見岳山頂に出発から3時間30分程たってやっと到着したのだが、さすがに周囲はすっかり明るくなり日の出こそ見過したが、南アルプス中部に位置するだけあって四方八方山ばかりであった。北は甲斐駒から南は聖まで一望の下に見渡すことができ冬山の醍醐味を満喫するのに充分であった。ここで、本日中に下山する川田さんと別れて、我々アタック隊も北俣岳分岐へと急いだ。この辺りから見る蝙蝠岳への稜線は極めてなだらかであり、雪も飛ばされて楽勝ムードであったが、分岐からは予想に反して鋭いキレット状のものとなり風も強まってきたので、一転して緊張の連続と相成った。その短いけれど充実した難関を通過したと思ったら、こんどはだだっ広い稜線を強風に吹かれ右へ左と倒されて、塩見岳山頂から僕らの方を眺めている本隊の連中が恨めしかったこと。そんな強風だったので、4入共食事らしい食事もすることなくひたすら前進といった感じであったが、途中思わぬラッセルも強いられ、蝙蝠岳山頂にやっとの思いで到着した時は思わず握手しあって登頂を祝いあった次第です。山頂では、記念撮影を早々とやり終えて、すぐに再び塩見岳までの長い道のりへと向かった。天候はどちらかというと悪化の方向に傾いているようであり、疲れと強風に晒されて不安感が先走ったが、何故この時にゆっくり食物でも充分食べなかったのかと反省させられる。それでも、途中の悪場は別所さんと稲田さんがアンザイレンして通過したが、なんとか塩見岳を乗越すことができ、塩見小屋にて待望の食事をゆっくりやり、ゆっくりと幕営地に向かってランプを頼りに歩き始めた。しばらくして、「モートー」の声、この時は全く山本・松谷両氏が仏様に見えました!!本当に!、そして、なんといっても幕営地に着いてからの暖かい飲み物は最高でした。

12月31日(本隊)(春原)
 アタック隊より遅れること1時間、5時半頃本隊は出発。アタック隊のビバーク用具を塩見小屋まで上げるので真木さんがキスリングを背負っている。樹林帯の中の道はよく踏まれており、ラッセルするようなことはなかった。約1時間で樹林帯を抜け出る頃、白々と夜は明け、天気は最高のようである。ここからは岩稜の尾根となり間もなく左下に塩見小屋が見える。小さな小屋のほかに、それより大きな木組がやりかけのままになっている。仙丈、甲斐駒の頂に朝陽が射し、山の夜明けの素晴らしさをまた想う。風がかなり強く、小屋の中に居ても足踏みが止められない有様だったが、野田さんはロングスパッツだけであった。ここにアタック隊の荷を置き各自ゼルプストを着けて雪の吹き飛ばされた広い岩稜帯を右寄りに登る。一度突風でヨロメいてしまったが、それ程強い風ではなくとも、瞬間的な風にはバランスを崩され易い。登り始めて間もなく、今日下山予定でアタック隊と同行した川田さんが下って来るのに会い、「ザイルはどうか」というようなことを尋ね、別れた。ザイルは結局使わずに、岩角に取りすがるように登路を辿った。雪はあまり着いていない。登路は幾筋もあるらしいが注意しないと苦労する。それでなくとも右下、塩一見沢へは急激に落ち込んでおり緊張の連続である。中にはキスリング部隊や、単独縦走者もあり、見ている方がハラハラしてしまう。9時項既に頂上に着いてしまった。展望は言わずもがなである。南アの北部から南部まで360度の大パノラマ。頂上は極めて狭い岩峰で、皆で立つだけの余裕もない程である。風を避け岩の下の平担地に立ち、遥か北俣を隔てて蝙蝠岳への稜線を眺めると、北俣まではナイフリッジのようで雪煙がもうもうと舞い上っている。谷を隔てた向かい側は、こちらから見ると雪も殆んど着いていない平担な岩稜帯なので、「この調子だと今日中にベースに戻れるな」と、アタック隊の歩調を見るべく野田さんの望遠レンズを覗くと、見える見える、何だか4人の影が走っているようにさえ見える。暫く彼らの影を追っていたが10時前、下山にかかる。更に慎重に天狗岩を越えてしまうと、あとは青い空と雪と太陽の世界を楽しみながら幕営地に向かった(アタック隊の苦労も知らず)。アタックを終えた後の樹林帯の道はひどく長く感じた。
 昼には懐しのかま天に到着。大晦日でもあるしアタック隊も戻るだろうからと、掃除をし食器もみな洗い直し、丸ごと背負ってきた鮭で石狩鍋を作るべく早くから準備にとりかかった。3時33分の交信では元気な声が頂上から飛び込んできて、一同期待を新たにして彼らを待つ。再び交信の時間。5時33分。「モートー、モートー。こちら本隊、アタック隊どうぞ!」繰り返せど繰り返せど応答なし。朝には、小屋付近から通じていた筈なのに。不安が天幕内仁広がる。鍋はもうとっくにぐつぐついっている。それにしても遅いので、野田、山本、松谷さんの3人が迎えに行く。出会ったら交信するように言い交して。それでも交信もなく、今度は鈴木さんが迎えに出た。広い天幕内は3人だけとなり鍋ばかりがぐつぐつ響く。寒々としてきてしまった。トランシーバーには何も入らない。そのうち足音がして鈴木さんが首を突っ込んできた。ハァハァいう息の下から「バテバテだ、まだ少し時間がかかりそうだ」と言う。やがて「モートー」の声。足音。能地さんトップに別所さんラストでアタック隊が帰ってきた!。辛うじて気力で立っているような有様で、桜井さんだけが、声だけは大きく怒鳴った。この時、あの、未踏の頂を目指す人々の、アタック隊とべースとの抱き合い涙する姿が、その感激が、極く極く当然のことだとつくづく思ったのだった。アタックのメンバーの報告を聞いて、彼らがどんなに辛い経験をしたか、そしてそれを乗り越えてきたか、ということを聞き、ちょっぴり羨ましく思った。とにかく、無事に、アタックを遂行したのだった。

12月31日(川田)
 起床午前1時半、今日はコウモリ岳アタックグループに同行させてもらう。アタックグループは塩見を越えて、コウモリ岳をピストンする予定。私は塩見のピークまで同行し、そこで今日中に下山帰京する予定である。4時半出発、本谷山とゴエモン山の鞍部、樹林帯を行く。風も樹林帯の中では、ほとんど無い。トップを行く桜井君、相変わらず速いペースで登る。おかげで、体がヌクヌクだ。この温さも、樹林帯が終る塩見小屋近くまで来ると、厳しい風が体に吹きつけ、容しゃなく体から逃げて行く。日が登る前のうすぐらやみを通して、天狗岩の岩峰とその先に聳え立つ塩見のピークが黒いシルエットとなって見られる。稜線上の窪地に作られた、塩見小屋で夜が明けるのを待つ。小屋の小さな明り取の窓からは、中央連山のうす黒かった山肌が橙に変わって来るのが遠くはっきりとわかる。小屋を後にすぐ天狗の登りになる。この登りも天狗の岩峰と塩見本峰との間のコルで少し下って、最後の登りとなる。夏道を取らず、桜井君トップで斜め上へとトラバースぎみに登り、最後はガリー状の所を上へ詰めてピークへ出た。風は相変わらず大井側から伊那側に向けて吹いている。岩陰の日溜りに入ると大変温かい。行動するには、もって来いの日よりだ。コウモリアタック隊とここで別れ下山する。
〈コースタイム〉
塩見岳発(7:30) → 山伏峠発(11:00) → 鹿塩着(14:30)

1月1日(小河内岳)(長崎)
 今日は昨日の本隊が小河内岳アタック隊となり、昨日のアタック隊の猛烈な登攀ぶりにいささか気押された感じで、つつましく静かに出発。
 既にトレースされた三伏峠までの緩やかな登り降りの間、眠気と吐気で足元がヨロヨロしてどうも心許ない私であったが、テントの花咲く峠小屋を過ぎ、お花畑よりはトップを買って出て歩き出す。
 静岡側はたっぷり雪のついた緩斜面だが、信州側は対照的な岩の急斜面で、雪もまだらでそれがかえって美しい綾をなしている。何故だか引き込まれそうな気のするのを引締め、ピッケルを身構えて鳥帽子岳への急登にかかる。途中、ダケカンバの生えた小ピークにてベースの人達と交信を行う。
 峠より30分弱で山頂に出る。完璧な晴天である。荒川三山や大沢岳、兎岳、聖岳も見える。あれは今の私にはただ眺めるだけの遠い別世界だけれど、この烏帽子の岩稜の山頂は私にとっては親しいものだと思う。合宿前に読んだ本多勝一氏の「初めての山」の中に小河内岳アタックの章があるが、その中で彼は、ー風雨の中の行動の邪魔になると、被っていた麦ワラ帽子を山頂のハイマツの蔭に置いて行ったー、と記している。それはどの辺のハイマツなのだろうか。この先前小河内岳までの道を、彼は遊びながらではあるがかなりの時間を費やしている。あまり楽とは言えないルートだと書いていたが....歩き出してみると雪の登りはずっと易しく、ただただ右手のガレに気を配りながら前小河内、そして小河内岳へと着いてしまった。
 山頂にて交信を行う松谷さんの声も目的を果した嬉しさがあって明るい。桜井さん、別所さんが烏帽子に向かったとの返信を受けた後、休息をとる為にハイマツを踏んで避難小屋に入る。鉄筋建の頼もし気な小屋であるが扉が壊れて内側に雪が積もり、また食糧の残り物などで汚れていたのは残念な気がした。
 行動食を食べ終え小河内岳を出発したのは10時。再びトップとなり、1Pにて烏帽子岳に戻る。烏帽子の静岡側へ伸びる屋根上で雪渓訓練の真似事をした後、お花畑から三伏沢へ降りて三伏山に取り付く。
 初めての冬山は天候やその他に恵まれて、あまりにラッキーな山行だった。私にとってこれは良い事だったのだろうか。これが冬山なのだと甘くみるつもりはないが、また再び雪の山を歩いてみたいと思う。新しい年の一日目の真昼に、ハイマツの斜面に腰かけて向かいの烏帽子を眺めながら、そんな事を考えていた。

冬山合宿初参加
真木 直彦

 私と南アとの触れあいは相当に古い。幼稚園時代まで遡る。私はその頃に南アに登ったのではない。しかし、心に強く残っている。
 紙芝居の時間であった。それは、ある登山家が南アに登っている途中に熊に出合い、捕まえようと追い掛けた。そうしたら母熊が現われて、彼は食われそうになったという話。今だに何を教えようとしたのか分からないのだが、それ以来、熊を見ては南アを、南アと聞いては熊を連想するようになってしまった。恥かしいけれど今もそうなのである。その私が南アヘ。冬ならば熊も出ないだろうと心に言い聞かせて。
 南アに行く私の恐怖は、何も凍傷や雪崩だけではなかったのである。しかし、山では冬山の魅力に取り付かれ、それらの悩みなど頭から消え失せ、ただ白銀の景色に見とれるだけでした。
 重い荷に喘いで登る時いつも思うのだが、キスリングのバンドは丈夫ですね。登る度に切れてくれという淡い期待が軽く裏切られてしまう。合宿に於ても切れなかった。もし切れたなら、荷の恐怖から抜け出られると思うのだが。それは経済的損失だけではあるまいて。
 塩見岳の頂上付近に於てのアイゼンの響きが忘れられない。友情さえ感じた。しかし、私の心を知ってか知らずか、アパートで彼は私を傷つけた。Nさん、あなたは分かりますね。元の御主人が恋しいのであろうか。山の道具も恐ろしいものです。
 南アに行く限り、さまざまの恐怖の中に熊さんが加わることは確実。もう南アは止しましょうや。
 取り留めのない合宿感想文でした。

正月合宿の感想その他いちゃもん
松谷 洋美

 一言ズバリで言えば面白かったが全般的には不満足。それはまず準備会の方向がだいぶズレていること。気象、医学等基礎的なことは準備会以前の問題で、コース等も各人が検討した上で、準備会に臨めば、準備会はより詳しく、密度の濃いものとなる。冬山気象なんかは、何も正月合宿になってからやるべきことじゃなく、谷川岳以前いや、冬が近づく段階で基本的なことは固めておくべきだった。装備は谷川で懲りていたので不備はなかったが、問題は食料で10人5泊程度なら、一人一日分の割当てを全部、購入からパッキングまで任せ切った方が、山に入ってからも慌てなくて済むと思う。食料の内容については、文句の多いところであるが、でき得る限り簡潔にした方がよい。そもそも山に入ってから、新婚夫婦の家庭のようなメシを食おうというのが間違いで、一汁一菜に徹するべきである。歩き疲れると、今日のおかずは?という事など問題じゃなく、ボリュームのみがものを言う。味など、うっとおしいテントの中じゃ何を食っても同じであるから二の次である。とにかく、こうした方が購入、パッキング、作る時間等、すべてに良い影響を与える。ボリュームのあるメシで腹を満足させて、あとは嗜好品によって楽しむ、と、こういう手でゆきたい。今回はポポンS、ハイシー等があったがあれは必要ない。ビタミン不足で影響が出てくるのは、いくら重労働しても10日以上たってからで、よっぽどひどいメシを食っていない限り大丈夫といいたい。僕もアメ玉がわりに、しゃぶらせてもらったが、朝起きてから、アラ、少しは、お肌が白くなったかしら?と思うぐらいが関の山である。とにかく苦しい環境の中でのこと、人間、どれだけ無駄を省けるかを目指すのもいいだろう。こう考えてくると準備会が、大分違ってくる。各担当者は何から何まで仰々しくコピーする必要はなくなるし、詳細の説明と、あとは討論に任せた方が楽しいし、内容がある。準備会は、慌ただしい準備より、研究という方向へ持ってゆきたい。
 と、まあブウブウ文句ばかり並べたが、これも試験が近づいてイライラしているためでして、勘弁願います。
 山行中は、しかし実に楽しかった。三峰はシゴキがないので、私ども哀れな新人も、幅をきかせてシャアシャアとしている事ができる。この雰囲気は、とてもいいと思うのですが、ここで問題になるのは、山で楽しむということはできるが、山を楽しむということができなくなるという説がある事です。
 困難な山にぶつかってゆくことはシゴキなくしてはできぬものか? こういう説は絶対、否定したいところでありますが、実際はこの説を認めざるを得ない状況がかなりある。シゴキが嫌いなら困難な山は諦める。この方法も、一つの手段だと思うのですがそれは嫌、じゃシゴキか? それも嫌。
 実は、この問題は考え方の問題でして、シゴキをされてまで困難な山へ行かなければならぬ、こういうことになってくると、自然に浸る為に人間関係を不自然にしていることになりワケがわからなくなってくる。シゴキで鍛えられた体はもちろん強いでしようが、それでなし遂げた山は、他力本願的で、人間よりも山という精神が先にある。いくら山を目指しても、人間よりもそれを上に置いて考えることは、やはり、どこか危険なように思える。山に登る人間は、人間ということを前提にした上で山を目指さないと、いくらシゴキで、すごい山行をやったといっても、それは人間精神からのルール違反で、本来の目的は忘れている。じゃ、僕たちは何をするべきか?というと、困難な山を目指したいが人間のルールは守る。これが本当の登山家としての、その前に人間としてのあるべき姿で、山での行動の限界も妥当な線が、出てくるんじゃないか? そう思うわけです。
 しかし、現状に甘んじていいわけじゃなく、もっと各人、自分自身を制御して山を目指さないと、チャラチャラ表面的に楽しむだけで先に進まぬようになってくる。
 今回の塩見は天候にも恵まれ非常によかったが、どちらかというと物足りない。これは新人訓練もあって、こうなったのだと思いますが、次のステップ、その次のステップに、これを布石とする進歩がなければ、いつまでたっても、どこか不満足な気が残るのじゃないか? シゴキと困難な山を区別するだけの資格もできないのではないか? とまあ、こうも思うわけです。
 困難な山を目指す、ということについては、三峰がどういう山をやるか、という方針の間題であって、ここに書くべきものじゃないのですが、僕個人としては、やはり普段へラヘラしていても、これぞ、と思うような山行には神経がピリピリするような、そして、畜生、畜生と思いながら歩くような、そういう山行が、将来欲しいわけです。そんな時にこそ、本当にいろんなことを考えることができるような気がするのです。山に行った、ああ楽しかった。でも、もう少しなにかが欲しいような。イチャモンついでに、もう一言。会報の岩つばめは、どこへ行って、ああやって、こうなった、と書かれているだけで、つかみどころがない。自由題材の原稿や小さな特集を組んで充実を図りたいところ。

正月合宿・気象
松谷 洋美

 気象庁から、いろいろな長期予報が出でいるが、全部を気にしても仕方がない。6ヶ月、3ヶ月、1ヶ月、週間予報とあるが、適当なのは1ヶ月予報である。それより長期の予報は、例年の周期に頼り空想の域を出ていない。週間予報は、山で天気図を取る限り必要ない。もし長期予報を活用するならば、実証的なデータがあり、時間的にも手頃な1ヶ月予報のみに専念する事である。
 都岳連の集会で気象説明等があったが、詳細を述べまた順序立てて説明するので、気象予報の組立てが分って面白い。活用するべし。
 上層気象図のこと。これに関しては適当な本がないので難かしいことは言えないが、使い方によっては、効果が上がるかもしれない。但し、通報時刻が山の行動と合いにくいこと、ラジオに短波があるのが少ないこと、などを考えると実戦では煩わしい感は拭えない。再考を要するところである。しかし無視するということではなく、幸い会には安田さんが上層のデーターを提供して下さるよい機会もあり前向な姿勢でいきたい。
 順序が狂ったが、山渓等に載っている山岳気象解説。あれは3ヶ月予報でやっていること、山の遭難を気づかうため、悲観的にならざるを得ないことを考えると使用に耐えない。本気にしてたら、いつまでたっても山へ行けなくなる。例をあげると昨年11月号は『全般的に天気変化が激しそうな初冬の山』同12月号『低気圧の通過で大荒れになりそうな年末年始』今年1月号には『下旬には暴風雪、大雪、雪崩の恐れ』まさに慢画である。
 最後に、一番重要な下層天気図のこと。山行には、なんといっても、これがものを言う。上層より詳しい変化が見られ、通報時刻も行動に即している。登山者は最小限、これだけはマスターしておきたい。よく、観天望気のみで、どんな山へも出かける人がいるが、ギャンブルにすぎない。現在、そういう人が生存しているのも運だろう。10年、20年と山をやっていても、ひどい悪天に襲われることは滅多にないが、その滅多にない時が問題である。観天望気だと変化が分っても大きさが分らぬ、実証的な裏付けがないから自分でいい方向にとってしまう。疑似好天等、欠点が多い。山岳部や山岳会の性質、程度を知るには、気象をどう扱っているかで分るとよく言うが、当をえていると思う。
 気象については、すごくよい本がある。これを知らなければあの山屋はニセだ、といわれる程である(ウソ)。しかし、他の気象書とは格段の相違であるから、気象の分野に足を入れていない人は380円持って買いにゆくべし(諸物価高騰の折、影響を受けているかも?)。山渓杜の『登山者のための気象学』山本三郎著である。今では山の教科書の一つになっているから、読んだ人も多いでしようが、三峰の指定教科書にしたいくらいな本である。観天望気から、天気図の書き方、なによりもいいことは、入門から卒業まで、一冊でこなしてること。天気要素を説明して、春夏秋冬の応用に入る。季節ごとに理解していって、2~3年たてば気象庁に入れる。ハツキリいって、山の気象はこれ一冊のみで充分。それ以上は徒労というもの。以上

今回の冬山
別所 三郎

(経過)準備段階
 正月合宿を塩見岳にするということは夏頃から確定しており、9月に偵察、12月に4回の準備会を開いた。
全体計画
 冬山が初めての人を対象に本隊、経験者を対象にアタック隊とに分け、経験者には一応アタック隊の内容を話し、自主的にどちらの隊に入るか選んでもらった。また、期日的都合により途中で下山する者は途中下山組として塩見岳のみ往復(うまく行った場合)することとした。行程としては、本隊は三伏峠をBCとして塩見岳、小河内岳の放射状登山とし、アタック隊は北俣分岐にACを出し蝙蝠岳をアタックしBCで本隊に合流する計画を取った。元日は休養日に当て、他に予備日を1日取った。夜行6泊7日の合宿とし、14~15名の入山者の予定であった。
装備
 分担と点検を徹底した。また、当会の冬テンはいずれも10年以上使用したそこらじゅう補強してなんとか使える代物なので、委員会に計り特別会計から資金を融通してもらい、10万円弱で8人用カマボコ型テントを購入した。
食糧
 一部の米とジフィーズで軽量化を試みる。しかし食料に関しては、BC固定スタイルなので、「おいしいものを作ってくれ、食べることにしか愉しみがない」と言われ、結局、実量もあり金のかかった華やかな食糧計画となった。
通信
 ソニーのトランシーバー2台を新に購入した。
医療
 会としての医療品を購入し、その2/3を会費から1/3を今回の冬山入山者負担とした。今度合宿等での利用の際は1/3の(約三千円)入山者負担で補っていくことにした。
気象
 長、短期予報と地域的特性について調べた。冬山の気象について一般的な事項を復習した。
記録
 塩見岳に関しては充分すぎるほど資料が集まったが、アタックに計画している蝙蝠岳については皆無であった。都岳連の冬山合宿についてのミーティングの際、記録の有無を尋ねたところ、岳人講座の冬山編にあると他の山岳会の人に教わったが、南ア全山縦走の記録だけで蝙蝠については得られなかった。
地元警察等の連絡と保険
 都岳連、長野県警にあらかじめ計画書を提出した。山岳保険は全員にかけることとした。
実施段階
 入山日と次の日がガスっていた程度で連日好天にめぐまれ、BC、AC地を変更したことと、休養日の元日も行動予定より1日早く帰京した。各行動の記録、装備、気象については、別記の通り、持参した食糧はほとんど使い果した。トランシーバーはアタック隊と本隊の連絡にその役目を果したが、地形天候に左右されやすく、同じ地点間の通信でも、朝晩で聞こえる場合と聞こえない場合が生じた。BCにおいてアンテナをテント外に出し、木に結んだら感度は増した。使用した薬品はビタミン剤を常用した(入山中)ほか、消化不良、下痢のために正露70掟、タケダ胃腸薬17綻と風邪その他で、EA錠メンソレータム若干であった。BC近辺で風の弱い時でも夕方でマイナス17度となり、夜間に目薬が凍ってしまったが、凍傷などの事故はなかった。ただ蝙蝠岳アタックのメンバーが鼻先にその初期症状が現れたが、下山後発見したため現地での心遣をすることができなかった。しかし大事には至らなかった。費用は全日入出者で、約8,500円かかった。但し、山塩館での旅館代も含む。実施後、感違いから宮坂、長久氏に下山後、直ちに報告をせず、結果として1月の11日の反省会に口頭で宮坂氏に報告した。反省会では全員そろった時刻が遅かったことと、他のパーティーが騒がしかったので、各自の分担された業務について報告し、気づいた事を述べて終った。

担当
リーダー山本(義) 途中下山組 川田、野田
特別参加 鈴木嶽雄
平氏は食糧担当で奮闘してくれたのに直前に風邪でダウン入山できず
○はアタック隊員
行程計画○別所、○桜井
装備○稲田、真木
食糧桜井、平
気象松谷
医療春原
記録、会計長崎
通信○能地
地元警察等小島
留守本部宮坂、長久

反省
 桜井君にも指摘されたが宿命的な問題で、社会人山岳会という性質上、12月は各メンバーとも仕事が忙しくなり、充分時間的に余裕がなく、しかもほんの間際まで全メンバーが確定されないことが、計画を立でる上に非常にやり辛らかった。冬山に初めての人、当会での冬山合宿に初めて入る人が多かったがその人達全部に何らかの担当をしてもらった。各自の努力で登山計画書は、バラエティに富んだものが出来上がった。しかしそれらを持ち寄って検討する余裕がなく、いささか個人プレーの域で終ったのではないか。入山時男子の平均荷物重量は35kgを超す重さであったが、その内日本酒4升、ウイスキー約6六本と、こと酒となると喜んで運んでしまう傾向にある。もうちよっとなんとかならないものだろうか。大人数だと何一つするにも時間がかかるが、アタックの日、本隊の人に夜中の1時半に起きて準備してもらって出発したのが4時過ぎ。快調に塩見小屋まで行ったが、そこからは岩場を行く事になるので夜明まで待った。敏速な準備と、より合理的な行動計画があったら、その日はもう2時間寝ていられたろう。パンにバター、ジャムを付けるスタイルの行動食を取ったが、強風と疲労とで面倒臭くて、ビスケットとテルモスのコーヒーで過した。行動食は手のかからない物が鉄則である。新調の8人用テン卜の下に、ペフと呼ばれる耐湿材を用いたが、非常に快適であった。今回の冬山は新人をして、「冬山ハイキング」だと言わせるぐらい天候にめぐまれて無事終っだが、それも谷川岳、足拍子等で調子を整えていたからだと思う。また、今後より困難に立向おうとしている者にとって、食糧、装備、行程とに改めなければいけない点を多々見出いだされたと思う。
追記
 遠く山形から参加してくれたモンちゃん、3年ぶりに冬山に入ってもらい、山への情熱のほどを示して下さった野田さんに感謝します。山岳保険金の支払をしようと会計の小池君に言っら長久さんが払って下さったとのこと。どうも申し訳ありません。そしてどうもありがとう。

共同装備
稲田 竹志

[天幕]
 8人用カマボコ型、4人用ミート型、2人用ボンボン型(アタック用)、ツェルト2張(アタック用と倉庫用)
[バーナー、燃料、炊事用具]
 ガソリンバーナー5基、メタ2箱半、ガソリン23L、口ーソク12本、大鍋2個、中鍋2個、コッフェル1組、アルマイト食器30個、皿8枚、包丁その他小物一式
[アタック用具、その他の用具]
 ザイル2本、三ツ道具、アイスハーケン、赤布の標識15本、トランシーバー、ラジオ2台、天気図用紙20枚、テルモス2本、スノースコップ2丁、ノコギリ2本、細引き、針金、プライヤー
、  ガソリンは停滞もなく予定より早く下山出来たので1/3ほど残りました。なお今回の合宿の装備は天幕をはじめとしてバーナーその他に三峰の財布をはたいて一段とデラックス化しました。これらの品物は皆様の物です。可愛いがってやって下さい。

〈コースタイム〉
12月29日 樺沢小屋(12:20) → 土場手前(13:15) → 塩川小屋(13:40) → 第二橋通過地点(14:45) → 尾根取付地点(15:20)(泊り)
12月30日 幕営地(7:20) → 三合目(8:00) → 五合目(9:35) → 分岐(11:10) → 三伏峠小屋(11:50) → 本谷山(14:30) → 本谷山直下樹林帯(14:52)(泊り)
12月31日 幕営地(5:28) → 森林限界(6:00) → 塩見小屋(7:00) → 塩見岳(8:54) → 塩見小屋(10:35) → 幕営地(12:10)(泊り)
1月1日 幕営地(6:00) → お花畑(6:55) → 烏帽子岳(7:45) → 前小河内岳(8:33) → 小河内岳(9:25) → 烏帽子岳(11:10) → 三伏山(13:10) → 幕営地(14:28)(泊り)
1月2日 幕営地(8:45) → 三伏山(9:50) → 三合目(11:25) → 塩川土場(13:10) → 奥沢井(14:50)

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