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大峰越スキーツアー(失敗の証)
野田 昇秀

 失敗して傷つくのが自分自身だったらまだよい。友を傷つけ、警察や遭難救助隊のご厄介になるに至ってはもはや論外である。
 昭和45年1月15日~16日の大峰越スキーツアーはそれでした。14日夜、上野駅を出発。北風の強い寒い日でした。上越地方の吹雪は当然予想できたので予定を変更して石打で滑ることにした。清水トンネルを抜けると吹雪でした。それが湯沢の駅に着くと何と星が出ているではないか。急いで降りて大峰越を決行する。ロープウェイで高原に上がる頃には無風快晴の上天気になっていた。新雪は驚くほど潜りスキーを付けて膝までのラッセルが続いた。若い友人達は張り切って先を進み、快調に大峰へ登り着く。栄太郎峠までは下り一方、深雪に幾度か転倒しながらも快適な滑降であった。高津倉までは登り一方、2時間のラッセルで頂上に着く。いよいよ待望の大滑降が始まった。滑り出した途端に事故が起きた。友が転倒腰を痛め滑れないという。空身で滑るのもだめ、スキーを履いて階段下降ならどうやら出来た。元気な友が先に滑り急を告げるも、道がわからず引返して来る。明るいうちに、難所のトナイの平(別名だまし平)を越えようと気が焦るが、遅々として進まない。真暗闇の中をどうやら通過することが出来た。大丸山までのだらだら登りは雪の表面が凍りスキーが上らない最悪の条件であった。交代でラッセルしやっとの思いで頂上に着くことが出来た。ナイターの光が見える。もう大丈夫だという安心感が私に大きな間違いをさせた。頂上から左手に林の中をトラバースすれば第五リフトに着くはずであったが、二十日石スキー場に面した斜面が伐採され大スロープになり輪かんで歩いた跡があった。そこを階段下降を続ける。先を偵察してくれた友より行止まりだと連絡が来る(後で聞いた話だがこのまま300m進めば第三ゲレンデに出る事が出来たという)。右手に見える二十日石の光を頼りに下降を続ける。あと少しでゲレンデに着くところにて傷ついた友は完全に動けなくなった。元気な二人は先に滑り降りて行った。まもなく大声でゲレンデに着いたぞと連絡がある。眠り込んでいる友をなぐりつけて起すも、その時だけ目を覚ますだけ。スキーを外して背おうにも首までのラッセルでは一歩も進めない。うわ事を言い始めたので意を決して雪洞を堀り中に入った。猛烈に寒い夜であった。いくらなぐりつけても目を覚まさなくなった。うわ事だけはひっきりなしに続く。ヤッケを脱ぎ、セーター脱ぎ、何とか持ちこたえてくれるように祈りながら友に掛けてやる。非常用の2本のローソクも燃え尽きた。灯を点けた夜行列車が何本も通過して行った。明方の厳しい寒気が身にしみる頃、空は明るくなった。下降の準備を始めた頃救助隊が到着、救出された。
 先に降りた友がいくら待っても、宿に帰ってこない私達を心配し、警察に連絡、遭難救助隊を編成(主として民宿の方々)して夜の明けるのを待って救助に来てくれました。この冬最低気温を記録した寒さの為、凍死していると大部分の人達が判断していたという。「無事か、生きていたか」の第一声に、どなりつけられるのを覚悟していた私もびっくりした。救護センターに搬入された友が治療を受けている間に、状況説明をし、お礼をのべる。午後から救助隊の幹部の方々、ゲレンデで照明を一晩中つけて待っていてくれた方々に、お詫びとお礼にうかがう。救護セン夕ーに戻ると請求書が出来ていた。約7万円也、後日支払う事を約して宿に帰る。宿にて別口請求書約2万円也。ナイターの電気代、日当、食事代等で合計9万円であった。その他お礼の酒代、会社からかけつけてくれた先輩の交通費等にて、全部合せると12万円程かかった。17日、六日町警察で調書を取られた。登り口の湯沢町の遭難救助隊(出動しなかったが)の隊長宅にお詫に行く。帰宅したのは夜中になっていた。
 スキー場で遭難が起きるとお客さんの数が途端に少なくなるという。危険な所へ行くなと親が止めるのであろう。テレビ、新聞で報道された影響が大きいであろう。深く反省している次第です。
 真夏にスキーの話で恐縮でした。転落、滑落、道に迷う等失敗の多い私ですが、この記録が私にとって最大のものですのであえて書きました。


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