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岩のぼり
松谷 洋美

 岩のぼりは、それを「いわのぼり」と呼んで欲しい。ロッククライミングなぞと発音されると眩しいほどに恥ずかしくなる。きらびやかなようで土臭い山行。だから、やっぱりそれは「岩のぼり」。閑話休題(さて)
 9月の多部田との幽の沢V字右ルート。集会でザイルだ、ハーケンだと気勢を上げていても、壁を前にした時は恐ろしいという他は何の感慨もなかった。岩は恐ろしいとよく人は言うが、僕らの場合はどちらも初心者だということ。それが一番恐ろしかった。頼りなく帰ってきた偵察の夜のテントで現役の岩のリーダーがいない三峰を二人で大いに罵ったものだ。
 本番の朝、いっそ雨でも降ってくれれば口実ができて帰れると思っていたが、抜けるような青空だ。起きる辛さと飯のまずさ。多部田が「やめようか」とつつく。ニタリと笑って受け止めたが、何とか支えてテントを出た。
 終了点に立った時は気抜けした感じであった。取付き点では上に無事抜けられれば抱き合って喜ぶことにでもなろうと思っていたが、あまりの呆気なさに握手を交わす気もしない。相手がピチピチした女の子ならば感激を装ってでもムシャブリついてやるのに、前に立っているのはただ一人人類の進化から取り残されたような顔の持ち主、多部田であるから無理もない。
 こんな訳で山行自体は何気なく終わってしまったが、僕らはこの岩で今後岩に対していたずらに動揺しないだろうということ、そして何よりも僕ら二人でやれるということ、そんな自信をつかんだ気がする。中芝新道を下ってきた時、こんな気持ちがこみ上げてやっと本当の握手を交わした。
 10月、北岳バットレス四尾根 同行、多部田。今回は前と違って、やたらに攻撃態勢にばかり明け暮れた感がしないでもないが、それがまた楽しかった。つるべ式でどんどん登り、かのナイフリッジも写真のためのポーズを取りながら越えるという大胆不敵な面構え。しかし、終了点まであと2ピッチという所で嫌な所へ取付いてしまった。正規のリッジ通しのルートが細かいと思われたので、バランスに全然自信のない僕は、垂直ではあるがゴツゴツした壁を選んだのだ。これが取付いてみると冷汗もので進退窮まるとは正にこのこと。ホールドが豊富と思っていたが結構のっぺりで、おまけに体を外に乗り出す箇所ばかり。左側に寄ろうと思うが伸ばした左足は不安を増すだけ。下から多部田が例の名調子で「早くしろよう、何やってんだよう、早くしろよう」と、急かしに急かすので「うるさい、黙れ!」であしらった。何度も左側へ乗り出そうとするが、大丈夫という確信がない。かといってこのままでは不安定窮まりない。そこへまた「おぅい、寒いぞう」まったくこっちは落ちるか落ちないかの瀬戸際なのに薄情な奴だ。あいつに構うと命がなくなる。兎に角進まにゃならぬ。左足をうんと伸ばして、「イザ、ナムサン!」....で、兎に角難場は切り抜けた。テラスへ着いてしっかり確保を整えた。やっと俺の番だ、という不満の顔で多部田が登り始めた。途中まで来て止まって岩をあちこち眺めていたが、急に僕の方を見上げた奴の顔は少し青かった。おかしくて仕方なかったが、上からザイルを弾いて「おぅい、何やってんだぁ、早く登ってこいよう」と笑いを必死で堪えて急かしてやった。
 頂に立った時、今年の岩は終わったなぁと思った。来年、またこれだけの充実した瞬間が来るだろうかとも思った。僕の山歴に岩のぼりという要素が新しく入ったこと、それが嬉しかった。


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