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奥秩父抄(笠取小屋でのこと)
長久 鶴雄

 随分と昔のお話しです。私も紅顔の青年であった或夏の日の夜でした。薄暗いランプの灯の下で囲炉裏の粗朶がパチパチとはぜていました。小屋のおやじさんは黙って鉄砲を磨いていました。飯盒のふたがパカパカいい始め、火を見つめていますと、今日のこと昨日のこと、色々と思い出します。

その1『滝川谷のこと』
 それはそれはほんとうに未経験の私には物凄い谷でした。この日も原全教さんのお供をしたのですが、栃本の本陣を早発ち、川又で入川を渡り豆焼沢の出合までは谷の左岸を高く高く捲いて行きました。見返る栃本は紫色に朝げのカスミたなびかせ、そこだけが明るく光って見えました。V字形に深く落ち込んだ川筋は遥かに下で『ミグロの通ラズ』も『高滝』もうかがい見るすべもありません。木々は幾重にも重なり合って対岸の尾根すら見えず、只時折りに水音が大きくなったり、遠のいたりして聞えてくるばかりでした。
 一旦本流の底に下り立ちますと暗い溝の中に落ちたようで、もう逃げることは出来ません。幾つもの滝はそれぞれに大小の釜を備え、長い瀞と淵と廊下の連続で、両側水成岩の壁は苔むしてつるつると滑ります。足も膝まで水につけて水中の足場を探すのですが、行き詰まって見上げますと、大きな倒木が壊れかかった小屋の梁のように岩にかかり、ゆれ動く梢にキラキラと光の矢が飛び散っていくのです。アアこれが奥秩父の美くしさと自分に言い聞かせてはみたものの、早く終ってほしいと思う心も五分五分の6時間でした。
 とうとうその日は釣橋小屋泊りとなりましたが今日は単独でブドウ沢を遡行してきたのでした。独り旅だと不思議に昨日のような恐ろしさがないのはどうしたことでしょう。一歩ブドウ沢に入りますと、それは美くしい沢でした。沢筋も急となり音もなく滑り落ちるナメ滝や小滝が飛洙を上げて連続します。梢からもれる光をライトにして山の女神が歌っているのでしょうか。中でも落口にある倒木が水門の役割をしている間渇滝はユーモラスな司会者でしょうか、奥秩父ならではの景観でありましょうか。
 朽ちた倒木と落葉にうずもれた沢筋の踏跡は水音も消えて静まり返り、原生林の中を熊笹を分けていきます。したたり落ちる汗を拭き拭き、遂に草原に出ました。それが雁峠でした。奥秩父の峠はなぜ甲州側が草原なのかしら、ともあれそんなところが私が奥秩父が好だった理由です。寝転んで仰ぐ空はきれいです。雲が高く、速く見えます。
 こうして夕方笠取小屋に辿り着いたのでした。

その2『仙波山の熊』
 飯を食べ終わった私を見て小屋のおじさんは、ポツポツと思い出すような目をしながら話し始めました。
 『鉄砲かね!ありゃあ惣小屋の◯◯め(以下彼が野郎といっていたのでヤローとします)に頼まれたで...』と話すところによると、惣小屋のヤローが熊に襲われ怪我したがその熊が滝川谷の方に逃げたからこっちへ追い出してくれと頼まれ今日も熊を追っていたんだとのことでした。「今年の春なァ、ヤローは仔熊を仕留めたで皮剥いでナ....マタギ連中と酒くらって寝てたらナァ、その夜明、窓からでっかい山オヤジ(熊)、手サァー突込んで横にぶん廻しただ。ヤロー運悪く窓の下にいたもんで、鼻サ、ぶっかぢられたって....なんでも鉄砲もって追っかけたが「仙波の夕ル」越して見失なったチュウことさ」
 春小屋の近くで子連の熊の子を撃ったので皮をはいで熊鍋を仲間と食べて酒盛りして寝たら翌朝親熊に襲われ鼻をやられたもんでヤローさん悔しがってもう4ヶ月も熊を追っているということでした。
 「秋になるメエーには必ずこっちに戻るだども、槙の沢辺り仙波の尾根サ追い上げてくれろと頼まれたで....やってるが、もうこっちの方にはいそうもねェ」って話でございました。私もそう思いました。滝川谷の源流は大洞川流域と違って熊の餌になる木の実のなる木が少ないからです。でも風で戸がガタガタと鳴ると思わず外を伺ってしまいます。
 話し終わってオヤジさんが囲炉裏の灰をかき回すとパッと火が燃え上がって明るく私の顔を照らしました。
 ふと気が付くと小屋のオヤジさんは何時の間にか毛布に包まって小屋の片隅です。音を立てないように飯盒を洗いに外へ出ますと、月は既に中天にあって笹の葉には夜露がしっとりと下りコメツガの梢が黒々と夜空を突いておりました。物音一つしない静かな夜でした。ランプの灯を細めて私も毛布に入ります。かすかに風の音がしているようです。明日は一瀬に下れるなアー、おやすみ!オヤジさん。

 熊の話、その後どうなったって?
 あれから色々ありまして1ヶ月半、ヤローさんとうとう奥仙波の芋の窪で山オヤジを仕留めたそうな、執念ですね!でも仇の熊かどうかは聞きませんでした。ヤローさんにしたら熊ならなんでも良くなってたんでしょうね。その後に私が惣小屋に立ち寄った時には、ヤローさんは居りませず真偽の程は確かめられませんでした。
 仙波山には狸がおってサッ....ではないオヤジがおってサッ!というお話でした。


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