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子持山 初山行の感想
梶 泰治

山行日 1974年11月10日
メンバー 宮坂、甲斐、高山、梶、別所(由)、松谷

 初山行で一番感じたことは「俺も随分年をとったなあ」ということである。参加者は6人であったが最長老の宮坂さんを除くと一番歳をとっていたようである(別所奥サマ30才くらいかな?)。ナニセ我が社は不景気風をまともにくらって沈没寸前、新入社員、毎年0で男では一番若い方、俺も25でまだiだ若い....(と思い始めるのは老齢化現象の現われかも)と思っていた矢先、(ハ夕チの若人を見た時はチト眩しかったというか急激に老け込む自分を感じた次第。
 二番目に感じた事、「山岳会のイメージ更新」今から数年前の新聞を賑わせた事件で農大のワンゲル部による「死のシゴキ」というのがあった。ずい分前の事なので記憶も薄れているが、新人一年生の訓練の為、重荷を背負わせた上、「シゴキ棒」なるものでしごいた結果、急性肺炎を起して死亡したという事件であったと思う。今でも三条ダルミにある和田君の慰霊碑を見る毎に暗い気分に襲われる。なにせ当時私は、純情ウブな青年であったので(今もそうです)、この印象が強すぎ、山岳会=ジゴキというイメージが先入感として私の頭にこびりついてしまったようだ。山はシゴクためにあるのではなく楽しむためにあると当時考えていたので、この事件に憤りを感じ、私の心は自然と山岳会から遠ざかってしまった。ところで、今回の山行で、少なくともわが三峰については上の考えを改める次第。新人初山行などは多少しごかれるものと覚悟していたが、先輩、後輩の隔てなし、自由に山を楽しむ感じ、こりゃシゴかれるのが大嫌いで(グウタラするのが大好きな)私にとってうってつけの会であると思ったわけ。
 〔最もジゴキが、いちがいに悪いわけでもなく、これについていろいろ考えもあるので、後の話題にでも....〕
 (山そのものの感想)
 私は上越方面の山に、ほとんど入ったことがない。何しろ東京の片田舎なので、上野へ行くまでには大月に着いてしまうから....。新しい山城ということもあろうが、今度の子持山は面白かった。まず山自体非常に静かだということ。終日とうとう一つのパーティにも出会わなかった。奥多摩、丹沢では到底考えられない。人で混雑する山に比べると人っこひとりいない山というのは少々薄気味悪い感じさえするが、それだけ生の自然というか、山本来の姿に触れられたようである。
 厚く散りしいた落葉を踏みしめ、踏みしめ、急登に息がはずむ。ようやく辿りついたナントカ岩(後から見ると羊の頭そっくり)、そこから広がる景観は今でも脳裏に焼きついている。赤城山がゆったりとした、やわらかな山容を横たえ、谷川方面を遠望すると、そこにはもう冬が白い手をさしのべている。この子持山はおだやかな晩秋なのに、何という違いであろうか。赤城山麓は、もみじで染っているというのに、谷川岳では、もう雪煙が舞っているのか! 何となく自然の厳しさを見せられた一面であった。でも、晩秋のよく晴れた一日、こうした山で、のんびり昼寝できるなんて、つくづく、シアワセだと思う。都会のアクセクした人間にはわかるまいて。
 バス停も近くなる頃のでき事....。別所奥さま、何を思ったのか脱兎のごとく駆け出した。一同しばらくアッケにとられていたが、やがてそのわけ分ってニヤニヤ、彼女銀杏を拾いに行ったのである....。それにしても100mも前から見つけるとは....食糧集めに天才的カンでも持っているのかな。

 『編集者より....この原稿の冒頭の部分では、(別所奥サマ、ハタチぐらいかな)となっておりましたが、当山岳会では見え透いたお世辞は使わないことになっておりますので、わたくしこと松谷が梶さんの正直な気持をくんで30と訂正させていただきました。悪しからず。』


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