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無題1
田名部 誠

 三峰に入ると同時に原稿を書いてくれなどと言われてしまった。僕をよく知っている人ならば僕の文才のないのを知っているので話ももちかけないのだが、とに角引き受けてしまったので書かなくてはならない。
 山を始めた動機といわれても生まれが信州の諏訪で、しかも母の実家が八ヶ岳の麓にあった関係上いつか大きくなったら八ヶ岳の頂上を踏んでやるぞとは思っていたが、いつでも登れるという気持があったのか結局登ることになったのは大学二年の夏で、その時の動機が今思い出そうとしても怪しくなってしまったが、たしかあの頃好きな人が(もちろん女性である)いたのだがどうも思うようにいかず自分ながら自分に嫌気がさし、おまけに大学の運動部の二年生でまだ自分の自由時間がとれないことも手伝って、一つ口実をつくって山への脱出を計った....といったような気がする。
 ちょうど一年の時の同じ部にいた友人が山へ興味を示していたので、自分が八ヶ岳なら知っているなどと大きな口をたたいて、急きょ山へ登ることに決定してしまった。決定したもののいざ登るとなると道具が必要なのに気づいたのだが全然そろっていない。靴と二ッカーと、ザックさえあれば一丁前の山屋きどりになれるなどと安易な考えでいたのが大間違い。その道具のいることに驚いたのだが時間的にも経済的にも許してもらえるはずもなく、あちこちから借り集めてなんとか形だけはとりつくろうことができた。山行計画も友人に任せっぱなしで、大変おぼつかないものだった。
 そして自分にとって最初の山行は昭和47年8月29日に決行された。こんな書き方をすると大げさになってしまうのだが実をいうと大変おそまつなものだった。まず最初に荷物の重さに驚き、初日に松原湖駅より湖畔まで荷上げしたのみでさっそくテントを張って行動中止のしまつ。次の日は、10時頃起床して12時行動開始、稲子湯までバスで行き、そこから石楠尾根を登って白駒池まで行くのがその日の予定だったが、案内書には3時間程度で着くはずなのに歩けども歩けども尾根の樹林帯が続き、道を間違えたのでは、という不安な気持になったが、それもそのはず5分歩いては10分休んでいたのだから、予定通りに着くはずはかった。
 こんな調子で北八ツから硫黄までの自分にとって始めての山行が終った。その時は、もう山なんか登りたくない、と思ったが、だんだん下界に近づくにつれて苦労させられた山から遠ざかるのがおしいような変な気分だった。その後何度か山へ行きたいと思いながら部の方が忙しく行かれなかったが、四年になってなんとか二日ほど休みをとって赤岳まで行って来た。その時の動機というのも、電車の中で山へ行く人を見て、自分も急に行きたくなった、という簡単なもので、その時は、同行者もなく単独だった。ここで感じた事は一人で登るのと、二人で登るのでは、数字上で、1と2で大して変わらなくても、実際は大きな違いがあったということだ。とにかく炊事一つ取っても、仲間と酒などを飲み歌をうたい、たのしそうにやっているのが聞こえるのに、自分のテントではふきこぼれたコッフェルのふたをあわてて素手で取ろうとしてやけどをしてその生煮えの米をテントの内で全部ぶちまけてしまったり、ラジウスに石油をつごうとしてシートの上にこぼして石油臭くてやりきれなかったことなど、一人では笑えぬわびしさというものがあったが、半面、自分の思うように行動することができ、ゆっくり山を楽しむこともできた。
 このように何だかおぼつかない動機で山を始めたのだが、山に対する認識の低いことの危険なことと、自分一人での限界を知り、山岳会に入ったのである。


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