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無題2
松屋 洋美

 3年前、田舎からヒョコヒョコ出て来て、大学を物珍らしげに眺めてみると、聞きたがる人が誰もいないのに、立て看板の前でヘルメットを被って恐しそうなお兄さんが何やら難解なことを大声出して叫んでいる。演説するのにヘルメッ卜が必要だなんて、不思議な人も日本にはいるもんだと思った。大講堂に入ると、はるかかなたに、むしめがねのようなめがねをかけた人物が金魚のように口をパクパクさせて、「今から君たちは四年間....」なんて、たわいのない事を無邪気にしゃべっている。キャンパスを歩けば歩いたで、いったいここは大学か、キャバレーか?と、目を疑う程の派手なお姉さん方が闊歩している。口に紅つけ、おしろいつけて。くちびるなんかは一種の粘膜で、肛門と同じであるからわざわざ真っ赤に塗りたくって人前で目立たす部分でもないと思うがいかが。
 笑い事でなく登校1日目にして白けた気分になった。こんな雰囲気の中で、ひとり白けた気分になっている自分を見つけて寂しくなった。何か明るいクラブ活動でもしたいと思った。たまたま貧乏じみた、粗野な感じの、それでいて活動的な人間の集まっているクラブが近くで新人勧誘をやっていたので、それに入る事に決めた。「入ります」と言ってから後に何をするクラブかと聞いたら、ワンゲルという、山に登るクラブだということだった。
 このように山に対する志向なんてさらさらなくて、始めはニッカーという変な半ズボンが恥ずかしかったり、重いキスリングを背負わされて我身をなげいたりしていた僕が、今は自称、山気違いっ、不思議な巡り会いだったと思う。
 山は、急に魅せられたのではなくて徐々に大きな存在になってきたように思う。まったくの厳しい、楽しいことなど何もなかった山行でも、ぼんやりしている時、ふと、ひとつの木立ちや泥水のたまった山道を、ある懐かしさをもって思い出す事がある。そんな小さな懐かしさが集まって山の臭いを知った時、山が好きになっていたのだと思う。
 山には、ハイキングから高山、夏山から冬山、沢登り、やぶこぎ、夏の岩から氷壁、そしてスキー登山等があるが現在では、これら全部を体験してゆきたい気持である。総合力が欲しいのであるが、むやみにエスカレートするのではなくて、オールマイティな初心者になりたいということである。山に楽しみ方が色々あることを知った時、山の深さを知ったような気がする。確かに縦走を終えて下山する心境と、岩登りを終えての下山の心境は全然違うのだ。対象が一つでも、内容は二つにでも三つにでもなる。そんな山行が出来る贅沢な登山者になりたい。
 これから先、なんとなく卒業して、なんとなく会社に入って、なんとなく女をめとって、なんとなく子供をポロポロ生ませて、なんとなくテレビでも見ているうちに「おじいちゃん」なんかと呼ばれたりして、あげくのはては恍惚の人となって、風呂場で石けんでも踏んでひっくり返りメデタシメデタシで成仏してしまうなんとない人生を送りたくないが為に、山に対しても、なんとなくという姿勢は取りたくない。なんとなく山へ行き、なんとなく楽しむ、それ程、白けた山行はないと思うのである。登山者にとって山は、なんとなく存在しているのではない。こちらが求めれば、求めただけ素直に反映してくれる。藪を漕ぎ、その道の長いことを知り、岩を登り、真剣さを学び、縦走で、地と天の融和を知り、氷の山で冷たくあしらわれ、お花畑で優しさに甘える。山は人格を持っている。そんな山に、限りを知らぬ今のうちに全人格をもってぶつかれば、いろんなことを伝えてくれる気がする。初心者でも、オールマイティな山行をして、いろんな方面で山から学びとること。これが現在の僕の山に対する考えである。


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