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八ヶ岳・阿弥陀岳南稜
桜井 且久

山行日 1975年2月12日~14日
メンバー (L)桜井、真木

(プロローグ)
 冬が深まると都会では西高東低の冬型の気圧配置となり、どこまでも澄み切った青空が続くようになる。そのような朝は意外なほどはっきりとした輪郭をもって富士山、丹沢連峰が眺められるものである。まさにそのような瞬間こそ、雑踏の中で山の息吹を鋭く感じさせ私の心を妙に浮き立たせる。私は内からこみ上げてくる山への憧れを抑えることが出来ない。
 「山に行きたい!」この単純で素朴な感傷的欲求こそ日常的に続く疲労の蓄積のはけ口であるし、私なりのロマンの追求の場なのである。実際、個人的事情から勤めを横浜に移したことによって、9月以降手応えのある山行は全くと言ってよいほど参加できなかった。だからこそ、冬山合宿参加はある種の気後れが入り混じったが、久方ぶりに純白の世界に単独にて再開したことにより、私自身の冬山への一抹の自信と熱烈なる山への憧れを呼び起こしたのである。そういった諸事情が動因となってかつてから狙っていた厳冬期南稜アタックに真木君を誘って同行願った訳です。

2月12日 晴れ
 毎度のことながら冬の茅野駅バスターミナルは寒さが身に堪える。今回は連休明けの平日とあって人も疎らで初端から元気が喪失し、何故か後悔の念がしないでもない。おまけにバスの運チャンが寝惚けたのか我々の注意が足りなかったのか定かでないが、下車予定の学校を通り過ぎた地点にて降ろされる。おかげさまで広河原方面へのルート選定にかなり無駄な1時間を過ごす。それでもラッセルや藪漕ぎを繰り返すうちに御小屋尾根の末端を横切ることができ、明るく広がっている涸沢に到着した。尚、この辺りからの南稜は威圧的に聳え登高欲をそそるに充分過ぎるものがあるようです(詳しくは真木君の天性の才能を駆使したスケッチをご覧になっていただきたい)。この涸沢付近は広河原沢と立場沢との合流点であり右に道を取る。途中、猟犬2匹と対決しながらも小1時間ほどで南稜取り付きの目印となる旭小屋に到着。この時期は鹿猟が盛んだとかで血痕があったり銃声が響いたりしますのでくれぐれもお気を付けください!小屋にて朝飯の残りを片づけるが、中は荒れ放題に荒れており、こんなところにも最近の登山者の道徳観の欠如が如実に見られ興ざめの呈でした。さて、そんな思いを払い去るかのように南稜の取り付きを小屋右裏手の踏み跡を頼りに開始する。南面にあるため雪の量は少ないが直ぐにルートが判然としなくなってしまい、立場山まで標高差約400mの急登は全く血の出る思いと言ってもおかしくないくらいの苦しい登高でした(ちょっとオーバーかな)。そんな訳で無名峰までの予定を変更し立場山から若干下った地点にて小鞍部を見つけて急遽設営と相成った。立場山付近はだだっ広くはっきりしたピークは見つけられないから天候悪化の際は注意すること。設営を終えてからテントの中で夕食の用意をする頃には小雪がちらつき時折り強風も吹くようになる。天気図をとってみると明日はあまり芳しくなさそうで判断に迷ったが兎に角シュラフに潜り込む。火が消えるとぐっと冷え込み不気味な暗黒の世界となり耐え難い。
2月13日 小雪
 昨日から降り出した雪がまだ止まず、依然空は鼠色に曇り不気味な風の音が谷を渡ってくるかのようである。今日はいよいよ南稜の核心部に入り難関のPⅢが待ち構えている。越えられなかったらバックするつもりで兎に角出発する。途中、青薙近辺の雪庇に注意した後はひたすら登る。一歩一歩のラッセルが骨の髄まで堪えピッチが次第に遅くなる。そんな苦しい思いをして到着した無名峰はその名の通りピークと呼ぶにはあまりに貧弱であったが、ここからいよいよ森林が切れ岩稜帯となる。そのためアイゼンを締め直しゼルプスト、ザイルをバックから取り出して二人共緊張の面持ちにて出発となる。阿弥陀岳は雲の隠れ不気味さが増々加わるかのようである。所々右側にかなり大きく張り出している雪庇に最新の注意を払いながらPⅠ、PⅡは難なく通過する。そうこうするうちに南稜最大のPⅢの岩壁がその姿を現す。予想はしていたものの改めてその大きさに驚嘆して気後れが先立ってしまう。気を取り直してルート選定を試みるが正面壁、左リッジルートは共に重荷を背負ってはとても無理と判断。ここはやはりPⅢを回り込むルートに決定し基部の斜面を若干下り気味にトラバースすると広河原沢第三ルンゼの急傾斜のガリーに到着する。ここの登りは岩の間に雪が薄く積もっている状態で不安定極まりなく、人一倍の慎重さが必要とされるでしょう。真木君が元気よくトップに立ちステップを切りながら進むが、しっかりとした確保態勢を取れないでいる私は冷や汗ものでした。それでも木の根っこにセルフビレイなど取りながら2ピッチほど進むとどうにかPⅣとのコルに到着。途中バックするにできない状態だったため、二人共安堵感が体中を覆い実にうまい一服を喫った。更に進むとほっとする間もなくPⅣの岩壁がこれまたその不気味な姿を現す。ここもまた基部よりトラバース気味に進むとバンド状の岩場に突き当たり行く手を阻まれた。ザックを降ろして偵察してみると若干被り気味で下部はスッパリと切れ落ちているではないか!ここはどうしても通過せねばならない。今度はしっかりと確保態勢を整えた後、真木君が思い切りよくトラバースを開始する。登った、思わず歓声が出そうになったが彼は無言のまま40mザイルをいっぱいに延ばす。私も得意のペッピリ腰でピッケルを背負い込み、荷の重さを気にしながらも腕力を使ってどうにか乗り切る。ここまで来れば山頂はもう確実になった筈だ。案の定、この頃から何故かガスが消えだし阿弥陀山頂のみか下界の平野部までその懐かしい顔を再び現し始めた。後は山頂直下の雪壁をアンザイレンし慎重に右から回り込むと待望の山頂に到着。まるで我々の登頂を祝うかのようにすっかり晴れ渡った景色を満喫する。よくぞはるけき来たものよと南稜のピークを見下ろし万感の思いに浸る気持ちは山屋の皆様に説明する必要はないと思います。山頂にて入山以来初めて別のパーティに出会い飲み物をご馳走になった後はシリセードも交えて一足飛びで下山となった。
2月14日 晴れ
 昨夜は念願の南稜を無事完登できたためか若干興奮気味でかなり遅くまで話し込んでしまった。話の内容は会の在り方、登山の捉え方、今年度合宿予定、果ては人生問題、etcと際限なく続いた。たった二晩くらいのテント生活でも二人だけになるとお互いの気付かなかった一面を知ることができて興味深いものであった。そんな訳で赤岳、横岳も踏んで帰る筈であったが朝寝坊してしまい、鉱泉経由でゆっくり下山と相成った。私にとって八ヶ岳の眺めは幾度となく目にしているものばかりであるが、いざ下山となると今度はいつ来れるやらと妙に感傷に浸って何度も振り返ってしまった。そんな私の小さな感傷とは全然関係ないかのように後から来る真木君は下山を促す。今度は誰もいない平日にたった一人で遊びに来ようと誓った。しかし、鉱泉からのはっきりした踏み跡を辿りながら俗化著しい八ヶ岳ではそんなロマンチックな夢想を描いてみたところではなはだ現実離れしていることに気づき、思わず苦笑いせざるを得なかった次第です。

(エピローグ)
 一言でいえば今回の阿弥陀岳南稜縦走は痛快そのものであったと言えるであろう。ただ、万人に推奨する山行形態であるかどうかは疑わしい。実際雪山のラッセル一つにしても事実は恐ろしく苦しいものでありながら、回想の世界では逆に美化作用が働き常に楽しいものであったかのように言いがちであるからである。事実、阿弥陀南稜の岩稜は私にとって十分手応えのあるものであった。しかしながら、何事においても泣きたくなるような試練を経て初めてそれ以上の歓喜を呼び起こすことができるのは当然であろう。あの重荷を背負っての岩稜縦走におけるスリル、虚脱感、etcを望む岳人はあくまでも周到な準備と慎重さを忘れずにアタックしていただきたい。それにもまして私自身にとって登山とはどういう意味を持ち得るか、といった問題を再考させられた点においても貴重な山行であった。去年、ある種の事情から気楽なサラリーマンから脱皮した結果、自己を意識的に生活者と規定せざるを得なくなった。つまり、自己の属する生活圏からむやみに飛び出すことは出来なくなり、極端に山行回数が減ってしまった。自己の思いのままに行動することは日々の生活と精進の中にしか確かめられない私自身の日常性から外れることを意味した。しかし、精神的、肉体的にも禁欲生活を強いる環境が継続するうちに自己が変化以前の状態に執着心を持っていることを発見したことも事実である。農村に育った人々には大都会への憧れがあるのが覆せない事実であるように、都会の緊張状態に食傷したこの私に秘かな土への郷愁が宿るのも無理からぬことではなかろうか。それ故、冬山合宿に続いたこの山行が、どんなにあの初めての冬山で抱いた新鮮さを私自身に打ち起こしたことであろうか!
 そういった諸事情が動因となって再び私自身受け身の山から攻めの山へと変化してきた訳です。兎に角、阿弥陀南稜を無事完登できたことによって私自身の細やかな夢である「厳冬期槍ヶ岳北鎌尾根縦走」に向かって私の冬山への挑戦がセットされ作動を始めたようである。

〈コースタイム〉
2月12日 茅野駅(6:00) → 降車点(7:00) → 二俣(9:30~9:40) → 旭小屋(10:30~11:00) → 稜線(12:15~12:30) → 立場山(13:30~13:40) → 幕営地(13:50)
2月13日 幕場(8:15) → 無名峰(9:50~10:15) → PⅢ(11:25~12:00) → PⅣ(13:20~13:40) → 山頂(14:55~15:35) → 行者小屋(16:15)
2月14日 行者小屋(10:25) → 赤岳鉱泉(10:45~11:00) → 小松山荘(11:55~12:45) → 美濃戸口(13:20)

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