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無題 その1
稲田 由美子

 初秋の山はまだ緑が濃かったが、それでも赤い葉が木漏れ日を受けて光り、季節の移るさまを静かに受け止めた気がする。足許のクロワッサンのような弾力のある葉の重なりは1年前、2年前いや10年前の葉もあるかも知れないと思いながら歩いていた。自分は果たしてどういう状態で生を終わり朽ちていくのか皆目見当もつかないけれど、それでも出来ることならこの細い静かな山道のようなところに横たわり枯葉を通して冷たい土へと浸透していくのならいいと思ったりする。そんな空間的なことを考えていたら、ふと足許で紫式部の実がケラケラ笑っていた。

無題 その2
稲田 由美子

 先日、満員電車の通勤ラッシュの中で一人の労務者風の男が私の隣に座っていた。夢中で何か独り言を言っているが、それは一人二役の形でああでもない、こうでもないと言い合っている。よくよく聞いてみると戦争中のことらしい。まだ年齢は50才前後と思われる。まるで芝居の読み合わせをしているかのように夢中で喋っている。苦しい戦争体験とこの人の中で育ってきた 大正の頃の良き時代への思慕のようなものが重なり合っている。外見はとてもそうは見えないが話を聞いていると何故かこの人の中から若々しいものを感じていた。と、そこへやはり同年代くらいのお腹の突き出た会社重役風の人が入ってきた。この時夢中になって喋っていた隣の男は、何とこの重役風の男に席を譲ろうと酒の匂いを漂わせながら必死になっている。勧められたこの男は「いや貴方の方が私よりずっとよく働いて疲れているはず、結構ですよ」と答えた。が、男はまだ、どうぞどうぞとやっている。結局、重役風の男は席を譲ってもらい、男と逆の形になっていた。気が付いてみると二人はいつの間にか一つの共通点を持って話を始め、いつの間にかマニラの方の話になり、言葉までが現地のそれになっていた。まるで周りにいる私達に向かって「こんな言葉は誰にも判るまい」とでも言っているかのように酔った労務者風の男と二人は夢中になっていた。そしてこの二人の共通の話題が海軍であり、軍艦であることは言うまでもない。隣にいた私の感じたことは、二人の共通点であるところの「戦争」に関しては私にとって無知に等しいものであるが、ただこの時一つの燃焼しきれなかった青春の残骸を見た思いがした。だからこそ50を超したような男の言葉に、ふと若さのようなものを聞いたのだろう。この二人にとって戦争後の生き方は、外見のようにもしかしたら対照的なものであったかも知れない。が、人生の中で一番熱し燃えるべき時期を失い、今細々とその過去を背負い、目まぐるしい中を何とかやっていることだけは変わらないのだろう。燃えきらないうちに雨が降り、曇り日に諦め半分の思いでもう一度濡れ紙にマッチを擦る、そんな気がした。この二人の別れは、ラッシュの電車がホームに滑り込むと同時に、肩をたたき合うものであった。
 生の終わりの時期は人それぞれ、その状態も違うだろうがこの二人の男のそれはおそらく大差はないと思う、私の両親も大正の生まれであるが、やはり何となく燃えきっていない若さのようなものがあり、またそれに淋しさのようなものがまつわりついている。やはり可愛そうな年代である。今、自分達はこの年代の人達の上に乗っかって少々いい思いをしているんだなーと人ごみの中でふと思ったりした。


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