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朝日連峰主脈縦走
春原 君代

山行日 1975年8月9日~12日
メンバー (L)春原、庭野

 花を求める庭野さんの3年来の熱情に惹かれて計画した。朝日連峰といえば未だに原始の静寂を秘める奥深く重厚な山塊で、そのお花畑は比類なく素晴らしいものと言われているので、私達の期待は常に増して大きかった。そして釣りキチ三平の大ファンとしては"幻のタキタロウ"の棲むという大鳥池も見たかった。タキタロウというのは北海道のヒメマスが祖先で、ここの環境が悪いために原形と幾分違ったものになったものらしい。しかし、今は地震のために地球の割れ目に吸い込まれてしまって本当はいないのかも知れない。
 期待を乗せた列車は早朝、山形駅に着き、バスターミナルから7時に出発。3~4パーティが乗車している。途中、宮宿で乗り換えて白滝に降り立つ。普通の林道の分岐で左下に行けば朝日鉱泉へ、私達は右の道をそのまま真っ直ぐ行き大きく右へカーブするところで左に小道がついていて山道となる。木のしっかりした橋で沢を二度渡り返して山腹の道になるが水は豊富でザックに持つ必要は殆どない。実によく踏まれた歩き易い道だ。流れに喉を潤しつつバスに同乗していたパーティが越したり越されたり、思い思いの山歩きをしている。皆、鳥原小屋泊りなので誰も急がない。緑も空気も実に清々しい。重なり合って空を覆う大きなホウの葉から漏れる光は星のように水流に落ちてきらきらと流れていく。その畔で行く水を眺め、澄み切った青空を仰ぎ、憩うていると時の過ぎるのを忘れてしまう。こんな悠長な素敵な山旅は初めてだ。
 ぶなの樹林の中を縫って鳥原キャンプ地の少し手前、1300mくらいの所で尾根に出ると急に目の前が開け、灌木に覆われた湿原が緩やかな起伏で広がっている。キャンプ地付近は木道が作られていて、こんな所までとびっくりし少しがっかりもした。既に人間の手中に陥ちて保護されるべき自然となってしまったのだろうか。それにしても初めの恐ろしいような期待とは裏腹に、このメインコースに限っては始めから終わりまでよく整備された道で稜線の笹なども綺麗に刈られて、つい昨日地元の人が刈ったらしい所もありこの地域への力の入れようが伺われる。人々が慣れ親しんでいる地域という印象を受けた(ただ、主稜を外れると、そこはやはり深山幽谷の原始郷かも知れない)。2時過ぎには設営も終わってしまい、こけももの実を摘んだりしてから、インスタントカレーとサラダの早い食事を外で済ませてからは長い夜だ。だがそれも、歌を歌ったり満天の星を仰いだり遠い街の灯を眺めたりしていると、あっという間に時間は経ってしまう。
 夜半、寒さで目が覚めた。2時頃だ。セーターにシュラフカバーではとても寝ていられずバーナーを焚き通した。丁度、東北の方面に大雨を降らせた前線が南下して冷たい空気が入り込んでいたので冷えたのだろう。4~5度に感じられた。真夏の熱暑の中から来てのことなので些か驚いた。上空が不安定なためか天気のすっきりしない日がその後2日ほど続いた。
 鳥原山一帯は高原状の穏やかな起伏を成している。狭い山頂もやり過ごし少し広い小朝日山頂に立つと(畳10枚以上はあると思う)、大朝日黒俣沢のY字雪渓が写真の如く見える。そこから140mの熊越断層崖を一気に下って(道は岳樺や栂の中にあって歩き易い)鞍部に立つと、両側から足元まで深く切れ込んできている沢の源頭に断崖が垂直に立っているのが見られる。彼方には平らな山稜が重なりつつ延々と連なっていかにも東北らしい。いよいよ大朝日岳だ。いつでも尾根を歩いている時は「稜線にさえ出てしまえば....」という気持ちが原動力となっているものだけれど、朝日連峰では殊更それが待たれる。乱れ咲くお花畑の中の高原漫歩を想うのである。銀玉水は登山道のすぐ左にあって、この山行中最高の水と思う。
 大朝日山頂は東北上越関東一円、佐渡まで見ゆるという大展望も霞の彼方で本当にがっくり。早々に下って下の雪田の畔、水の伝う斜面一面に白い小っちゃなヒナザクラの咲く所で休む。初めて見る花だ。おおらかな緑の起伏の向こうに大朝日の三角頭が素敵だ。昼なのにもうツェルトを張っている人もいる。誰も急がない。西朝日に至って振り返ると深い荒川を隔てて大朝日の右に一際鋭く他の山々を斥けて祝瓶山が孤として空を突いている。大源太山が上越のマッターホルンなら、さしずめ東北のマッターホルンみたいな山だ。北に向かうと稜線の両側に張り出した尾根の南斜面はいずれも荒々しく削られ深い谷に落ち込んでいて広い稜線とは対照的だ。
 竜門小屋には既に多くの人が着いている。やはり時間が早いので、外でソーメンとサラダと漬物の夕食。庭野さんは「もっと一杯あるように見せようよ」と缶詰やラーメンを出して演出する。でも美味しさは抜群!一緒にバスを降りた人達が同じようなペースで歩いている。明日もまた同じだろう。
 連峰中屈指の高山植物の宝庫という寒江山に期待を抱いて出発すると、間もなく足許にお花畑が開けて、それが起伏してずっと続くようになる。天気は芳しくなく朝日も射さないが期待に違わず様々な草花の入り乱れる群落が朝露に濡れそぼっている。静かなしめやかなたたずまいである。昨日はミヤマリンドウの鮮やかな紫色の高貴な花弁に目を奪われ通しだったが、今は未だその小さな花弁は閉じたままなのでちょっぴりがっかりする。ヒナウスユキソウは花も茎もすっかり茶色になってしまっていたが、苞の白いワタが濡れてなお美しい面影を充分に留めている高嶺の花のイメージが彷彿とする。それにまた、ウメバチソウ。誰が付けたか、その名に寸分違わぬふくよかなほっくりしたようで、ほのかなクリーク色は見る人の気持ちを芯から和らげるだろう。匂うような乙女の姿だ。イワイチョウやミズゴケも多く、岩礫地をびっしり覆っている。私達はこの湿原性の草花の中で暫し時の流れに任せた。
 ようやく腰を上げ縦走路に立つが、見えるはずの以東岳は全く見えない。かねて評判の高い狐穴小屋は開けた鞍部にあって、その作りは大朝日小屋と全く同じである。50前後の胡麻塩頭の管理人さんは行き来する登山者の様子を眺めては言葉を交わしたりして日を過ごしている(大朝日小屋以外の小屋にはみな管理人さんが居た。小屋の数も多いので歩程に合わせて選ぶことができる)。雪田は小屋の下方にあるが行くのには少し遠いので、小屋の前に引かれている水を飲み、30分ほどおしゃべりして別れを告げる。松虫草やマルバダケブキ、ミヤマウイキョウなど秋の草が続く。この辺だったろうか、庭野さんが「草花の種類がこれまでと違う」と言っていた。彼女は相変わらずこけももの赤い実や、黒い何とかいう実を摘んで歩いている(アルコールが大好物なので)。私はもう飽き飽きして先に進み、草の上で仮寝を一時楽しんだりした。その間に彼女はステキな山男と話し込んでしまったのだと言って後で私を羨ましがらせた。実際、すれ違った時にも「ア」と思うような人だったのだが、話を聞くと全く優雅な山旅をしているらしい。「山に居る方が金が要らないから」と朝日から飯豊、更に北海道まで流れて行くんだって、と彼女も羨ましそうに言う。松虫岩まで来ると以東岳は直ぐである。一休みする間にも庭野さんは相変わらず実を集めている。こちらは、クタッとなって風に流れる霧の中で揺れている花穂をぼんやり眺め、何故か山の哀しさなど覚えたりして。
 15キロの主稜線も以東岳でお終い。足許にはかねて写真で見知っていた熊の皮を広げたような形の大鳥池が光っている。何となくほっとする。私達は真っ直ぐに下る道を選んだ。ガイドに「フィナーレに相応しい急降下。それに小屋までの平坦な道は、これまでの山旅を味わえる貴重な時間」とあったので。道は深く抉られていて、下り始めると水面は見る見るうちにせり上がってきて、たちまち目の高さまでになってしまう。池沿いの道では気軽な出で立ちの釣り人に出会い、下界に近くなったと感じる。20分ほどで大鳥小屋。木の間から山懐に抱かれた湖水をしみじみ眺め渡す。まだ1時半だ。先に行こうかと思ったが、素泊り300円という安さに小屋泊まりとする。先客も既に多い。小屋のおやじさんは、夕方5時半頃だったろうか「これからが釣れる時間ですから、もう少し頑張ってください」とスピーカーで釣り人を激励(それほど釣れないのでだろうか)。ここの魚は栄養が悪く頭でっかちで食べてもあまり美味しくないそうだが、幻の魚を求めてやって来る人は多いようだ。小屋の前では色々な人が一つの山旅を終えて迫る闇の中で語り合う。あのお花畑を抜けて来ながら「あんまり花もなかった」などとのたもう花キチもいる。「ヒメザクラくらいかな。ああそれにヒメサユリ、見た?以東岳から尾根を下ってくる所にあったんだよ」と嬉しそうに言う。庭野さんはいかにも残念そう。百名山を登ろうとする人や、一等三角点を捜し歩いたり、ピッカピカの鉈を持って藪漕ぎして来る人もある。その人は大井沢~障子ヶ岳~天狗角力取山~出谷川~オツボ峰というルートを2日がかりでやって来たが、人にも会わず心身ともにバテてオツボ峰に至り池が見えたので慌てて下ってしまったのだと言う。大変なルートだったらしい。メインコース以外は未だ未開の地なのだろう。人懐かしくなってしまったのだろうか、この人は夜遅くまでよくしゃべった。単独で主稜線を来た人は大朝日小屋から大鳥小屋まで1日コースの人が多いようだ。「つい貧乏根性が出てしまうんだね」などと言う。それに引き替え、私達は優雅な旅である。
 翌日はまた同じトラック(予約はしてなかったが)の荷台でひどく揺さぶられて「マッサージにしてもこりゃ効き過ぎだ。過ぎたるは及ばざるが如し」などと冗談を言い笑い合ったりしていると不思議な共感が生じて大いに愉快だった(トラックは荷物を別の車でロハで運んでもらったので300円で済んだ)。店の前では焼けつくような真夏の暑さに月の輪熊の親子が脂肪のたっぷり付いた体を持て余していた。


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