トップページ > 岩つばめ一覧 > 岩つばめ227号目次

霧の声
長久 鶴雄

まえがき
 長い間山を歩いていると様々なことに出遭う。それが恐怖であったり、不思議なことであったり、又、幻覚であったりして。しかも或時は偶然にそしてまた予感のようなものが・・・・。
 若い時にはそれ等は全て自己の意識の上にたった幻として来たものでしたが、長い年月、幾多の人々と接し、又別れてくると人はもとより生き物には全て霊の存在を意識せざるを得なくなってくるものだ。只それを感じやすい人と全く感じない人とがあり、それは感受性のある人に向かって忍びより、語りかけてくることが多いものです。たとえその人との因果関係のあるなしにかかわらず。じっと目をつむって過去の出来事を考えてみて下さい。ひょっとすると、君も、貴女も、そうゆう人間かも知れませんよ。
霧の声
 あのことはもう、12・3年も前の事で、峰々にはまだ白い物も訪れず冬山には一寸間がある10月も下旬のことです。私は蒲田川の左俣を登って(今の小池新道)大ノマ乗越に立ちました。里はすでに薄暮が迫り、灰色の枯木が竹ササラを立てた如く、槍と穂高の岩峰は夕日を受けて、それは全く血の色のように赤く見えました。今日は同行のエーデルワイスの若い娘さん三人、小屋番をやってくれるTさん、それに山仲間のKと私の六人でした。娘さんなどのはなやぎとは別に何となくKも私も、それは予感のようなものでしょうか、乗り切れない気持で顔を見合うだけでした。
 双六池はもう半分ほど氷が張っていました。夕暮れの中でTさんがギーといやな音を立てて小屋の戸をあけます。わずかに石油の残ったランプに灯を入れて六人の食事も終り、炊事の火と、ささやかな薪ストーブで暖まり、話もいつしかつきて、寝ることになります。
 Tさんは明早朝、黒部に下り岩魚を取ってきて、夕食のおかずにしてやると言います。「わしは下でねるで、おめーさん方は二階にねるといい、西側の窓の下がぬくいでよー」と言いました。階段を上がると成る程西側は丁度袋のようになったところで北側は尾根の崖が風をさえぎっています。
 小用を足しに外に出てみると、闇の中に一面の霧が双六谷の方から吹き上げて静かに黒部側に流れて行きます。小屋に戻ろうとすると遠くで「オーイ、オーイ」と人の呼ぶような声がしました。あれっと思いしばらく聞き耳を立ててみましたが、それっきりでした。
 小屋に入ってTさんにその事を言いますと「なぁーに、そりゃ霧の声だよ」「霧の声?」「そうさね、静かな時は良く聞こえることがあるで、明日は天気だよ」と申しました。二階に上がってシュラフにもぐると、ドタン、スーの口でした。他の四人はすでにスヤスヤと・・・・。「寒けりゃ戸棚の中に毛布があるでよ」と言うTさんの声も半分夢の中です。
 夜明けも近い頃でしょうか、寒さで目がさめました。不思議な事に二階の一角がポーと明るいのです。そこには小さな灯がもれていました。いつの間に来たのか六人程の人影が、四人はローソクの火を囲み、二人はややはなれて横になっていました。私の動きにKも目をさまし「いつ来たんだろう、大分ぬれている様だけど雨かい!」「イヤ霧が深いだけさ」と言ったものの、先程の「霧の声」の事が気になった。やっぱりあの声はこの人達だったのかと思いました。
 四人は小さなメタ(缶)に火をつけようとしているのですがなかなか火がつかない様子、私は毛布を取りに行きがてらホエーブスとメタを差し出し「どうぞお使い下さい」・・・・ほんとだ・・・・この人達はずぶぬれでした。ぬれたヤッケをぬごうともせずに・・・・「戸棚に毛布がありますよ」。六人は只うつむいたままうなずくのみでした。Kは「えらく愛想のない奴等だなァ」、私は「よほどつかれてるんだろう」。娘達は一向に気付く様子もなくスースーと気持ちよさそうだ。やがてKも私も再びまたねむくなって、もうひとねいりと、シュラフに戻りました。
 東側の窓から日が射し込み、お嬢さん達の賑やかな声におこされ、その日は笠ヶ岳を往復するのみでしたが、Kと私は昨夜の来訪者を期せずしてさがしました。でもそこには既に人影もなく六人がいたと思われる床がしずくでぬれた跡を残し、貸したホエーブスとメタがそのままの所においてあるだけでした。「あんなにまいっていたのに、又馬鹿早いお立ちだなァ」と二人は話し合った。「ゆーべはドーシタのよ、二人でボソボソ! ねられなかったわ」女どもがボヤきましたが、私達は何故か昨夜のことを話す気にはなりませんでした。
 小屋のTさんは、もうとっくに岩魚釣りに行ったのでしょう、私達の他は誰もおりませんでした。その日の笠ヶ岳はそれは良い天気で、いつもあのカタンコトンといやな音はリズミカルにさえ聞こえます。秩父平まで戻りますとまた双六谷から濃い霧がしたしたと這い上がってきます。その日の夕方も昨日にもまして気温は下がり、池もすっかり氷が張りました。賑やかにTさんが釣ってきた岩魚で食事をします。
・私「Tさん昨夜の六人はどうしたの、湯俣にでも下ったのですか?」。
・T「何? 六人? そんなのしんねェ」。
・K「だって、ゆうべぬれねずみで、おそくやって来た奴さ!」。
・T「いや誰も来ねェよ、今朝だってワシ一人で行ったのよ」。
 そんなことはない、たしか六人、それも大変疲れて、びしょぬれだったんだ。Tさんも変な顔して一緒に二階に上がってみる。確かに今朝と同じようにそこがぬれている。あれから1日たった今も今朝と同じ位に乾きもせずに。この時のTさんの引きつった顔を見ている内に、なんだか二人とも、ぞーっと寒気がして来た。女達はもう声も出せず息をのんでしまった。
・T「今夜は皆んなで下に寝よう」。とのことでこわごわ、振り返り振り返り下に降りる。
 Tさんの話すところによると昨年10月の末、双六谷で中年二人を含む六人の登山者が遭難したらしいのだが、全然発見されていないとのこと。Tさんは「きっとあの連中が自分達の居場所を知らせに来たんだろう、小屋の中で良かった。外だったら、おめーさん谷へ引きずって行かれたかもしんねぇ」と言う。
 其の夜はほとんど一睡もせず一晩中ストーブをたき続けたが、また六人が二階に来ていて階段の上り口から下を見ているような気がして恐ろしい思いでした。翌日私達は一目散に湯俣へ下り、Tさんも蒲田へ帰って行った。
あとがき
 後日Tさんの発言で再び遭難者の捜査が開始され、5日目に双六谷の源頭近く六人が発見されたとのこと。四人は岩室の中にかたまって、もうすこしで尾根というところの這松の中で二人、その位置の仕方が私達の見た幻の六人と一致していたことはKと私の他は誰も知らないことです。Tさんとはあれから一度も会う機会もなく、Kはその後、山に行かなくなって仕舞った。私はあれ以来しばらくは山で這い上がってくる霧にあう度にあの「霧の声」がアリガトウ、アリガトウーと聞こえて来てしかたがなかった。


トップページ > 岩つばめ一覧 > 岩つばめ227号目次