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あら不可思議
真木 直彦

 人は誰しも若かりし時、作家に憧れるものらしい。自分の書いた文字が時代の壁を乗り越えて不死鳥のように生きながらえる。思わずペンを取る。しかし、ペンを取れば己の無能をあからさまに見せつけられる。顔は醜く歪む。苦痛に耐え、喘ぎながら書いても名作はそうそう生まれる筈がない。
 ここに「夫人」という小説の序文を掲げる。現在、鬼才と呼ばれている作家の処女作で、諸君も知っているかと思う。志賀直哉はこれを絶賛した。この作品が名作と言われる所以である。
 『夫人』(序)
 裏にある林で蝉が狂ったように鳴いています騒々しい。気の小さい人なら一緒に泣いてしまう。
 暑さに緑葉が黒く見えます。遠くの町並みが白く霞んで、今にも消えそうです。雨が降ったせいかしら。ああ、胸が苦しい。岩にしみ入るなて嘘だわ。
 昨日、電車の中でかわいい男の子に会いました。ずっと年下の子で、私の顔をじっと見るのよ。私、困りましてよ。あのように熱い目で見つめられたのは何年も前のことです。まだまだ若いのかしら。それとも眉でも染め忘れたのかしら。ホホホホホ、そうなら私はピエロ。
 ああ、あの蝉うるさいわ。早く死ねばいい。この暑い日に、静子さんはどこへ出かけるのかしら。
 「静子、どこへ行くのです。あなたは高校生です、口紅など塗るのは止しなさい」
 私の方を見て、引きつらしたような笑顔を見せたわ。あれが私に対する返事です。小さな頃からそうでした。菓子を与えても何も言わない、怒っても泣かない。嬉しい時はちょっと歯を覗かせるだけです。
 4才の時でした。静子がオシかしらと思って病院に連れて行きました。診察室に入り、私が一通りの状況を話す間、静子は私の顔を無表情な目で見つめていました。お医者さんはしきりに首を傾げ、
 「お嬢ちゃんがねえ....」
 とつぶやくと、静子は
 「はい、何ですか」
 と答えたのよ。その時、私は静子を殺そうと思ったわ。ホホホホホ、ほんとよ。
 「パパはいつ頃帰るの」
 あら、静子が話しかけるなんて珍しいこと。何か起こるかしら。でも、これが本当です。親子ですもの、ホホホ。
 結婚は不思議です。
 小料理屋で私の脇に茶色の背広があるのに気づき、何気なく手に取りました。すると背広がねじまがって、裏地に「有川栄」刺繍がしてあるのが目に映りました。普通、名字だけでしょう。笑ってしまいました。「有川栄さん、この背広どうしましょうか」と誰となく叫んだら、隣の席に座りネクタイをだらしなく緩めた男が、手に盃をもったまま酔った赤い目でじっと私を見ていました。鳥肌が立ちました。それが夫との出会いです。ほんとに不思議です。ただそれだけで結婚してしまうなんて誤解です。結婚なんて誤解がなければできるものではないわ。有川栄、いやな名だこと。
 それにしてもいつ頃帰るのかしら。今日も午前様でしょう。
「静子、パパは午前様よ」以下略
 こんな意味がない駄作が名作なんて。この世には多いのでしょうね。
 思うのですが、世の山屋さんも山などへ行きたくないのですよ。好きでもないのに「あの人は山男」という名誉?のために重荷を背負わなければならない羽目となる。文学青年が嫌いなコーヒーを、それもブラックで飲むようなものです。
 この作品も名作の座から引き降ろして苦痛を取り除いてやりましょうや。作者がどうしても浮かばないって?あなた、それは無理というものです。作者は私ですもの。
 イキなポーズは止しましょうや。


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