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第一合宿 槍ヶ岳
真木 直彦

山行日 1975年12月29日~1976年1月2日
メンバー (L)桜井、甲斐、多部田、真木

 槍ヶ岳の詳しい山行記は多くの登山者によって書かれている。ここでは単に私の手帳から抜粋するのみに留めることにする。

(29日)
 新穂高温泉、7時40分、曇り。関西登高会らがいる。北アに来たと肌で感じる。
 滝谷出合小屋、13時、晴れ、ドームが黒く見える。テントが一つもない。
 槍平、14時40分、晴れ。滝谷が重圧感を持って迫ってくる。北穂は雪煙で白い。槍は未だ見えない。10張ほどのテント、消灯20時20分。
(30日)
 起床、4時、雪。昨夜から降り続き10cmほど積もっている。出発7時5分。
 奥丸山稜線(中崎尾根)雪。風が次第に強くなる。ヤッケを着用する。
 依然風強く雪が降っている。吹雪。千丈沢乗越、12時50分、吹雪。雪が千丈沢から飛んでくる。プラトー直下で小さな表層雪崩。
 西鎌の登り、全員バテる。口元に氷が着く。多部田、顔に軽い凍傷。
 槍肩の小屋、吹雪。15時20分。避難小屋は満員で入れず。テントを張る。強風。
 消灯、23時10分。
(31日)
 起床、7時40分、快晴。
 肩(テント)発、11時、快晴。
 槍ヶ岳頂上、11時50分、快晴、絶景。12時35分、下る。強風。吹き上げる雪煙激しく視界悪し。下降困難。顔が痛い。
 槍の肩、13時15分、快晴。21時、紅白歌合戦を聞く。太田裕美の声が聞けず至極無念。消灯、翌朝0時20分。
(元日)
 起床、7時、快晴なれど風強し、9時出発。横尾、13時。徳沢、14時30分。この間穂高が素晴らしい。16時20分、上高地着。消灯、22時20分。星が近く見えた。
(2日)
 起床、7時10分、曇り。でこれからどうするね。
 山形に帰るさ。
 都落ちかい?
 お袋さんが待っているからね....。
 薄ら悲しいね。山はもう止めかい?
 まあ、気が向きゃあ一人で行くさ。お前さんも一緒に行くかね?
 いや、止すよ。
 疲れるなよ、じゃあな。
 沢渡、13時30分、下界は晴れていた。松本着、何時かは手帳に記されていない。

冬山報告 槍ヶ岳
桜井 且久

(はじめに)
 オーソドックスな登山を冬山に求めて、ここ数年冬山合宿を続けてきた、南アルプスを離れて北アルプスを目指して計画を進めてきた。思えば、20才の正月に雲取山で初めての冬山を経験して以来、槍ヶ岳は私にとって念願の雪山であった。三峰に入る以前は専ら単独行専門で、奥秩父、八ヶ岳、南アルプス北部・南部と無我夢中で進んできた訳で、冬の槍ヶ岳を縦走できたことで一応私自身の山に関しては一つの大きなステップを歩ませることができたのである。更にワンステップ上のグレードを目指している当会ならびに個人としては長い雪稜を自由に行動できる会員、経験が是非とも必要である。その意味から、不満足ながら一定程度の成果は上げられたものと思われます。先ず、10月初旬に別所さんを中心に偵察が行われ、10月下旬には私が能地さんのお世話になりながら偵察ならびに荷上げを完成させた。更に11月末の連休には就職のため出足の遅れていた真木、多部田両君が中心になって谷川岳に氷雪訓練を貫徹させることができた。4人全員そろって訓練が何一つできなかったのが悔やまれ、また現実に本番においてもパーティシップの弱さが露呈されて気まずさを一部に残したとはいえ、兎に角無事に帰ってこられたということは一歩前進したのではないかと思われます。
 パーティ、桜井且久、真木直彦、甲斐正信、多部田義幸。
12月29日(快晴)
 昨夜は先輩諸氏の暖かい見送り、差し入れを受けながら上野を出発。新穂高の登山基地にてRCC、関西登高会、etcの有名(?)山岳会共々入山届けを出し、妙な使命感にとらわれながら出発する。白出沢の出合まではずっと林道歩きが続き雪の少ないこともあって何か北アに入山しているんだという実感がしない。穂高に登ると息巻いている某山岳会の女三人と別れ、いよいよ樹林帯の細道に入り込む。途中、滝谷出合にて「名所」の迫力に改めて圧倒され、初めて北アルプスに入山してることを再認識させられる。本日のテントサイトである槍平はさすがに賑やかで、今年の流行はやはり我々の持参したドーム型のようであり、カモシカの繁盛振りが目に浮かぶようであった。
30日(晴れ~曇り~雪)
 入山初日は天候にも恵まれ難なく通過できたため、昨夜はかえって本日以降のスケジュールを巡って論争があり判断に迷う。結局、計画通り槍平小屋の横から赤布に導かれ奥丸山の急登となる。中崎尾根までは急登を覚悟していたためか以外に疲れは少なかったように思われる。穂高の峰々を背にして苦しみながらも刻々と高度が上がるのが何よりの救いであった。一応本日の予定はプラトー直下までということであったが、4人の体調ならびにペース良しと判断して続行と決断を下す。天候は相変わらず悪いようであったため若干緊張気味にて進む。西鎌尾根方面の風が強そうであった、何故だか嫌な予感がしていたが案の定この辺りから私の体調が非常に悪化し、ほんの5分間くらいのラッセルが身に堪える。小雪が舞い続け先行パーティのラッセルの跡などすぐ消えてしまっている。途中、千丈乗越の手前でルートファインディングに非常に手間取り、小さな雪崩も起こしそうで冷や汗をかく。空は依然我々に襲いかかるかのように不気味な音をたてている。一瞬、前進すべきか後退すべきか判断に迷う。しかし、乗越しまでどうにか来てしまったと逆に多部田、真木両君ははっぱをかける始末で普段の山行不足が露呈されリーダー失格の憂き目にあう。西鎌尾根は予想以上に風が強く、おまけに根雪の上に新雪が積もり極めて危険な状態で慎重な雪壁への直登を余儀なくされた。それでも薄暗くなる前に肩の小屋周辺に辿り着くことができ、念願の3000mでのテント生活が現実のものとなり万感の思いに浸る。
31日(小雪~晴れ~強風)
 昨夜は前日の疲労のためぐっすりと寝ることでき、すっかり疲れがとれる。予定より早く肩まで着けたので午前中は苦労して上げたおしるこを満喫しながらゆっくり過ごす。ここで秋に荷上げしておいたガソリン5Lも無事補給でき、安心してバーナーの空焚きをおこなう。満腹の後でゆっくり体調を整え、おもむろに穂先のアタックに移る。途中、強風地点で多部田、真木両君の動きが止まったため、私がトップに立ち山頂一番乗りを果たす。狭い頂きは北鎌尾根からの縦走組や我々のようなアタック組で満員の盛況を呈し、信号機が必要とされるかのようでいささか興醒める。幸い、見晴らしは素晴らしく富士山、南アまではっきり眺めることができ冬山の醍醐味を満喫する。
1976年1月1日(快晴)
 念願の槍アタックも無事終え、虚脱感からか深夜まで話し込み無口で有名な甲斐君まで話に乗ってきたようだ。山のことやら女性のことやら話は尽きることがなかったが終始凡人に変身しつつあるこの私が若い3人の批判の的となり、逃げ口上を考えるのに精一杯であった。社会人と学生の差か定かでないが私自身も自分の考えは至上のものと考えた時もあり、論点は常に理解できるものであったにも拘わらずかみ合わないようであった。未熟・不安定・傲慢・単純・純真・向こう見ずといった一連の性質こそが青春の属性であろう。だからこそ人は青春に執着し、春を愛惜するのかも知れない。しかし、この私はとりわけ不安定で生臭い青春期などまっぴら御免こうむりたいと、紅顔の老人面して記したとしたら、また彼らの反撃は必至であろうか!私は年齢差のあまりない彼らに説教するつもりは毛頭ないし、またその資格もない。ただ、私自身も現実という壁にぶち当たり挫折した後にあらゆる意味で変容を強いられ、今もそれは続いているという事実関係は理解できないであろうか。生き続けるということは、あらゆる俗物たちの動きと闘い続けることであろう。だが青春の本質ゆえに打算、屈服、etcは許すことができないのである。
  蹉跌は証だ。
  真なるものは必ず蹉跌する。
  蹉跌の深みに転落せぬ者、
  己はそいつの友ではない。
  君見給え、此のおもちゃ屋の
  葉巻の灰は崩壊しない。
  サンタクロースにもらうなら、
  ほんとに火のつくハヴァナがいいな。
 この詩はかつて学生時代に愛唱していたものであった。これ以上は何も言うまい。ただあらゆる対話は最低限の正義作法を心得ずしては成り立たないということを自戒の意味を含めて明記しておきたい。
 元日の朝は昨日と同じような青さで我々を迎えてくれた。3000mの稜線に未練は残ったが雪崩地帯を積雪量の少ない間に下山すべく槍沢下降にかかる。甲斐君トップで頑張ったため一気に上高地まで下山してしまった。今年は雪量が少なかったため雪崩の心配もまずなく、上高地などは所々土が露出している有様であった。
2日(晴れ)
 圧倒的な穂高連峰を後にして平坦な雪道を釜トンネル、坂巻温泉とひたすら下る。沢渡まではかなり長く、いいかげん嫌気がさしていた頃到着。ここまで来ればタクシーが入ってきており松本まで一直線という訳だ。駅前にて今回の無事登頂を祝して祝杯を挙げる。これがまた真木君好みの一杯飲み屋で恐ろしく汚らしい所、今度来たら必ず寄りますよと調子のよい返事をして私は3人と別れて一路岐阜へ向かう。おかげで美味しい料理を満喫することができた。
(おわりに)
 今回の山行は表面的には曲がりなりにも北アルプスに無事登頂し成功したかのように思われる。しかし、私は今回の山行を終わってどうしても解らないことができてきたのである。それは、いったい山岳会というものの存在そのものが解らなくなったということである。登山は個人でも行けるし、集団でも行われる。登る人の好みによって自由な登り方が選べるのが特徴だ。しかし、困難な岩壁や大きな山の縦走、冬山、etcとなると集団の力が必要とされる。そういった山好きな同好の士が寄り集まって作っている友好団体が山岳会であろう。実際、私自身も当会に入る以前は単独行という甘い夢を誘うような純粋なムードに酔いしれていたのである。また技術的にもより困難な登山を求めて山岳会に入ることに決定したのであろう。それは集団の構成員の精神的、技術的な協力によってより困難な登山を可能にし、安全の限界を広げていくことが可能だからである。ここに登山におけるチームワークの必要性が認められる。ところが、最近の傾向として特に登山の目的がまちまちであり、山に対する態度も多様を極めている。大まかに分類すると、第一にカッコよさを気にする登山者の増大。即ちファッション化傾向である。第二は、できるだけスマートに登りたい、汗をかきたくないという傾向である。第三は、自然との融和と言うより単なる気分転換としての山である。第四に、単にスリルとか爽快感だけを求めていること。第五に、仲間との交友の場としてのレジャー登山がある。こういったことは喧騒な都会から離れて管理社会の人間疎外から逃避したいという現代人にとって無理からぬことかも知れない。しかし、本来の山岳会なら岩登りも尾根歩きも山登りに変わりはないというはずであるが、現実には岩登りを主体とする会で尾根歩きばかりやっていると白い目で見られて居づらくなることがあるであろう。また三峰山岳会の場合はどうであるなどとは言うまい。その逆も大いにある訳である。そういった多様な目的志向があるとすると、単に山好きと言ったところでチームワークなどできる訳がないのである。またそういった比較的自由な空気で和やかにいくのが社会人団体の本質でもある、ということになるともう絶望的である。組織と個人の問題は永遠のテーマであるかも知れない。私は登山はかくあらねばならないと定義づける気は毛頭ない。いずれにせよ自分の登山を「真」と見るのも「唯一絶対」と見るのもそれは一向に構わない。しかし、そのために他人の登山を「似非」とか「価値の低いもの」と見る動きには黙認できないものがある。それと同時に個人の愉しみがあまりに組織の一員という枠にはめ込まれようとする動きには反発を感じるのである。私自身に依然ワンダラー的資質が強く残存しており、記録的山行を実践する以上に自己充足の山行を求めて登山を続けたいと思っているのでしょうか?まあ、どちらにしても今度の冬山合宿によって、会のあり方ならびにチームワークについて再考させられたのは事実のようである。


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