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「故宮坂和秀」という男
宮坂 和秀

 私が気がついた時には、妻子や私の弟妹たちが枕元に心配そうな顔をして立ち並んでいた。そこは宮内医院というところであった。空ろな私の脳裏をかすめて過ぎていったものは「故宮坂和秀」という言葉であった。
 私はもう死んでいて病院のベットの上に横たわっているのではなかろうか。それにしては不思議なことに誰も悲しそうな顔をしていないのである。右側が痺れて余りいうことを利かない。やっぱりこの世の人ではないらしい。
そのうち医師が「あなたは誰ですか?名前は何というのですか?」「お年は何才、住所は?」と次々と質問してくる。年令なぞはトンチンカンな回答をしていたらしい。どうやら生きているらしいので「故宮坂和秀」ではないらしいような気がする。
 たとえ死んだとしても山で遭難して死ぬこともあり得る。それこそ本当の俗名「故宮坂和秀」であり、「愛岳院好裸沢歩居士」などという戒名を付けられていたかも知れないのだ。
 意識を回復してから「故宮坂和秀」と真っ先に脳裏を走って過ぎて行った観念は山としての生命を失った(だろうと思う)二つの亡霊が言い争いを続けているらしい。これはジギルとハイドのように好い奴と悪い奴という対照的な性格ではなく、どちらも好い奴ではあるらしいことには間違いない。お互いに馬鹿にする訳でもなく分身の仲の良さというところだ。
 そうそう、あれは8月の6,7,8の3日間で旅行に出かけたな。長男の運転で家中4人で出かけた訳で、泊りがけでは初めてのドライブという訳だ。勿論せがれに運転させておいてオヤジの方はウィスキーの水割りをチビチビとお楽しみという状況。
 「そう、それが悪いのだ、せがれの方は運転者だから飲めないのは当たり前だが、オヤジの方は運転しないのを良いことにチビチビとは子供不幸も甚だしい、だから罰が当たったのだろう」「続けよう。東北高速を福島まで(東京の家から3時間半まではかからない)ここから吾妻磐梯スカイラインに入ったが天候がいつしか悪化、次第に土砂降りとなった」「そうそう、いつかスキーの時、会の連中で高湯の玉子湯に泊って滑ったことがあったけな、楽しかったな。ケンカはしていてもこれは意見が一致したな」
 「浄土平辺りは風雨と寒さのため車から出ることもできなかった。土湯峠付近もだめ、裏磐梯のレークラインも諦めて檜原湖も何も見ずじまい。磐梯も登らず、会津若松に行ってお土産を買って帰りに明治維新の白虎隊で有名な飯盛山をちらと見ただけで猪苗代町の宿へ行く。磐梯スキー場にある磐梯ロッジが今夜の宿だ」
 「そういえば今日のラジオニュースで伝えるところによれば、真室川方面で大変な水害があったと言っていたな」
 「翌日は曇りから次第に快方に向かった。会津若松から新潟方面へ向かう途中から分かれて只見川へ入る。只見線はトンネルが多く、たまにしか走っているのが見られない。田子倉ダムを見て六日町で昼食、十日町を越えて飯山から信州中野に出て湯田中泊まり。最後の日は志賀高原に登ったのだ」
 「死んだお前と生きている俺と不思議と意見が合うではないか。二人ともやっぱり懐かしいのは同じだからな。あの日は快晴で浅間は勿論、菅平の根子岳も、低い所では八風山と岩舟山も見えていたではないか。」
 「昔、二十才頃志賀高原へスキーに来た頃は上林からナツメ坂をエッチラオッチラと登って一日がかりで、たった一軒しかない熊の湯へ泊り、横手山のノゾキをへつって渋峠を越えて草津へ滑り込んだことがある」
 「馬鹿言うな。草津へ滑り込んだなどと体裁を作りやがって、渋峠から下降に移った途端に足首をねん挫して、股ストック制動を使用して転び転び下ったじゃないか。でも今の若い者のように人の助けを借りないところは誉めてやろう」
 「昔の話は今はよそう。渋峠から山田峠へ出て万座温泉を見てまた戻り、湯釜なぞを見て草津へ下った」
 「おい、一昨年のスキーの時、振子沢を下ったろう。もう忘れたのか」
 「忘れるものか。今それを言おうとしたところだ。振子どころではなく、横滑りと斜滑降の折り返し運転の連続。山スキーばかりやっていたからな」
 こういう身体になってはもうスキーも不可能なので、今では懐かしい思い出なので一人は生きている奴と、一人は故人とのクドクドした会話をされたのでは敵わないので筆者が書くことにしよう。
 草津からは浅間の鬼押出しを見て、あの辺りが車坂から登った黒斑山などを見廻しながら軽井沢へ下って、高崎、東松山へと出て関越道を通って帰宅した。
 次の日が土曜で休み、都合2日間休養したのち会社へ出勤したが、どうも調子が悪い。また故人が話に首を突っ込んできた。
 「会社で計算違いばかりで何回もやり直す始末で、皆から大分お疲れの様子だねと笑われ、俺も全く車は疲れる、山を歩き廻った方がよほど楽だね」
 「いや、そうではない。これがお前がおかしくなって来た始めなのだ。俺は預言者の素質があるので始めから判っていたのだ」「なぜ、俺に教えてくれないのだ」
 「それは教えてやりたいさ。お前は俺の分身なのだからな。それがお互いに生前では予言を伝える方法がないのだから仕方がないさ」
 「それから1、2週間後だったな。女房の弟が訪ねてきたので、例によってビールを始めた訳だ、俺は正味2本も飲んではいないがそれなのにロレツが回らなくなってきた。それで妻子が床を敷いて俺を寝かせてくれた。翌朝はケロリだったが、また愚痴になるが医者に診てもらうように注意してくれないのだ」
 「馬鹿。何度言ったら判るのだ、俺は預言を伝える方法がないとさっきも言った」
 「それからは何事もなく過ぎていった。山もここのところあまり出かけていないので9月、10月をかき入れにして会社の旅行も含めて殆どスケジュールが一杯になっていた。俺は先ず9月の13、14、15の三日間が休みになっているので野口君に電話をかけ丹沢の蛭から菰釣の方まで縦走してみないかと誘ったのさ。勿論、テントを携帯してさ、ところが彼は笛吹川の東沢から甲武信岳に行くことにしている、一緒に行かんかと言う。俺は行きたいと思ったが一寸キツイと考えて今回は止めにして、来月の10、11、12の三日間に廻すことにした。後から考えれば止めにして良かった訳だ。山で倒れていたら悲劇だ。虫が知らせたという訳だろう。」
 「不幸中の幸せと言うわけだ」
 「次が三峰神社における山岳会の大集会があることだし、楽しみにしていたんだ。12月にある忘年山行は俺の係だった。これも責任を果たさなければね」
 「判る判る、俺とお前とは分身だからな」
 「さて、俺の倒れた日の話だが、三日間で日曜大工でもやるかということで、電気大工を使っていそいそ仕事をやった訳だ。問題は次の日(つまり敬老の日の前の日だ)、庭の物置を覗いて材料を物色している最中に右脚に痺れがきた。その時は脳出血だとは思っていなかった。脚を引きずるようにして家に上がって横になっていればすぐ治るくらいに考えていた。日当たりが良いのでもう一度立ち上がって同じ部屋の日陰に横になっているうち、暫くして気持ちが悪くなってきたんだ。この付近から俺とお前が別れて行こうとしていたんだ」
 「お前は今一生懸命原稿を書いている。確かに書いているのだが、やっぱり遺体は宮内医院の二階の病室の隅に安置してあると、もう一人のお前が言うのだ」
 「だが俺は死んでいない。もう少し俺の話を聞いてくれ、だんだんはっきりとしてきた。細かい字も書けるし曲がった字は書かない、この随筆の論旨も一貫しているじゃないか。病状が軽いのか俺の身体が丈夫だったのか、自分ではメキメキ回復して今では右足の裏が麻痺しているくらいのものである。勿論、病院の中を杖も使わず階段の手摺にも触らずに歩いている。退屈して困って何日も歩き廻っているというのに医者は血圧が不整だ、血沈が良くない、脈拍が不調だと色々言い立てては引き留めを図っているに違いない、死んでいるのだったら遺体はどんどん腐ってしまうぞ」
 「それでお前は生きていると言うのか、それは足のある亡霊というやつなのだ。またもう一度、丹沢を、沢歩きを、その他の山々のハイキングをしたいという未練な願望が西洋式に足のある亡霊になったのに過ぎないのだ。お前は馬鹿だ、さっさと山のことなど忘れてしまえ、悲しいことだろうが仕方がないと諦めが肝心なのだ」
 さて、分身であるこの二人の亡霊は果てしなく争うことであろう。でもこの筆者としては山岳生命を失って「故人」となった宮坂和秀という男の哀れな心情を汲み取って早く成仏を願わずにはいられない。
 「故人」の最後の山行は丹沢では葛葉川を遡ったことであったし、一般では古峰ヶ原から三枚石を通って井戸湿原に遊んだことを付け加えておこう。
 老兵は消えるのみ。


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