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私の内のヒマラヤ
庭野 幸子

山行日 1976年4月17日~5月8日
メンバー (L)庭野、春原、平

 今だにまだ思い出すと胸が痛くなるし、写真を見るたびに昔の良き時代を見ているようでキューンと懐かしさと悲しさが湧いてきます。それほどあのトレッキングは私が山に求めていたものがあったんです。
 今まで何十人と山へ一緒し、素晴らしい日本の山々に登ったのにこんなに充実したことはありませんでした。
 先ず第一の理由として自然の素晴らしさ、見ているだけで胸が一杯になり叫びたくなる山々。
 シャクナゲのあの赤い何とも言えない色や桃源郷のような谷間のシャクナゲの中の村。山が真白に染まる薄いピンクのシャクナゲ。また、湿原にはサクラソウがビッシリ咲いている。まだ雨期前で花の種類は少ないとは言え群生している様は壮観です。
 そして野生の動物達(カモシカ、黒鳥、イワヒバリ、雷鳥、山鳥、モルモット....etc)。タムセルクにしろ、タウチェ、アマダブラムにしろ、進むにしたがって形がまるで変ってくる。1日がすがかかって次の朝、突然素晴らしい山が目の前にある....それが前々日、遠目で見た山とは....。
 それらのことが想像していたよりも比べ物にならないくらい私の心の中に沁み込んでしまいました。
 第二に人間の素晴らしさ。
 春原さんが書いてくれると思いますが、私もどうしても書いてみたいと思います。シェルパ達は勿論のこと素晴らしい人々でした、でも私にとって印象深かったのは一緒に行った人達のことです、詳しく述べてみたいと思います。どの人も本当に自然が好きなんです、かといって遠征隊で行くような人達ではなく、山を楽しんでいるんです。一人は顔に似合わずロマンチックな人でした、そして私と同じくらいに本当に花が好きなんです、いやむしろ私よりもズーッと....。そうかと思うと一度歩き始めるといつ戻ってくるか分からない、花を見てはじっくり見つめ、山を見ては考え込み、1時間や2時間の他の人との差なんて毎日普通のことでした、ユニークで変わっていて物凄く気が長い、と言っても素晴らしい人でした。また一人は生き物が好きだって言ってました。いつも大きなネットを手に持ち、あの高度のあの苦しい所をチョウを追いかけ、左に右に非常にタフマンなのです。生き物なら何でも好きで鳥が出てくると追いかけ、ワシが空を飛べば急いで望遠レンズを取り付け、いつまでも狙っていました。星座の名前も詳しく帰りの飛行機で南十字星を教えてくれました。
 また次の人はとっても面白い人でした、いつも漫才みたいなことを言って人を笑わせて楽しませ、そしてとっても思いやりのある人でした。
 山、花、星、動物等の話をしていればご機嫌な私です、楽しくないはずがありません。毎日楽しくて楽しくて、アッという間に過ぎた3週間でした。
 山行の報告もしたいと思います、上に行った女性だけですので、ペリチェから上だけの話に限りたいと思います。

トレッキング
4月23日カトマンズ→ルクラ→チモア
4月24日マムチェバザール(3440m)
4月25日シャンボチェ(3760m)
4月26日プンキ(3250m)
4月27日ミリンゴ(3750m)
4月28日ペリチェ(4243m)
4月29日ビブレ(4570m)→ペリチェ
4月30日ロブチェ(4930m)
5月1日ゴラクシェップ(5100m)→ベースキャンプ(5456m)→カラパタール(5545m)
5月2日ペリチェ
5月3日タンボチェ
5月4日シャンボチェ
5月5日シャンボチェ→カトマンズ

 ペリチェに滞在する女性二人はチョラツオ湖を廻るというのでツクラで別れ、一行五人はクンブ氷河モレーン末端に登り始めました。今までとは違い黒雲母、白雲母、大理石のような結晶をした石英が強い日光に反射してキラキラ光っている。ついあれも拾い、これを拾いポケットの中はガシャガシャ重い。
 未だ体がちょっと重いが頭は痛くない快調だ。登るに従いアマダブラム、カンテガ、タムセルクが開けてくる。平らな氷河沿いの川に沿ってしばらく行くとロブジェのはずだった。ところが後方のシェルパに何となく急かされ次第に苦しくなってくる。この日から手足が重かった。行けども行けども(ノロノロと)ロブジェは遠い。その時はそれ程分からなかったけれども、今考えると高山病にかかり始めていたらしい。ロブジェは4900m、頭の上はロブジェピークの凄い岩峰が鋸の歯のように聳えている。すぐ上なのでいつもなら登ってみたくて堪らないのに動く気にならない。この夜、ちょっともめごとあり。やっぱり皆調子が悪くイライラしているのだろう。
 シェルパ達は非常に元気、我々は全員が餅を食べ過ぎて胃の調子が悪く(これも高山病症状かな?)眠れないのに、夜遅くまで博打をして騒いでいる。次の朝聞いたらコックのロブさんが勝ったとのこと。
 次の日はきつかった、予定では朝10時頃ゴラクシェプに着き、午前中ベースキャンプ、午後からカラパタールに登りエベレストの夕焼けを見ようと思っていた。ところが身体が言うことを聞かずフラフラ、ゴラクシェプで昼食を食べ明日もあるからと今日は三人でベースキャンプまで行くことにした。
 クンブ氷河を渡りベースキャンプまでの中間点くらいまでくると氷の柱が立っている、氷河の上だということを感じないくらいに石ばかりで小川も流れている。そのうち私一人脱落、もう上に行く元気なし、ケルンも立っているし後30分もしたら皆引き返すからと言うので一人で先に帰ることにした。一人になった途端にこれほど恐ろしいことはなかった。身体はフラフラ、よっぽどしっかり足を出さないと何処に行くのか自分でも分からない、ケルンが判り難くて、ともすれば間違えそう。おまけに眠くて眠くて目をつむるとボーとなって10分くらい動けない。氷河の石がゴロンと落ちると遥か下の方でポチャンと音がする、クレバスだらけ非常に暖かい日だったのでヌプツェの雪崩の音が響いてくる。
 そんなこんなで5分行っては10分休み、10分行っては15分休み、永遠に長く感じられた。この調子では明日の朝は期待できそうにないので、今日の内に何とかエベレストだけでも見ておこうとカラパタールに登り始めた。この登りは私の限界だった、10歩登っては1分休み、完全にそれを実行した、ここまで来てエベレストを見ないなんて....その力が私を上に登らした。ところが登り始めたのが4時頃、頂上直下で夕暮れとなりヌプツェ、エベレストもガスを被り始めた。ガスの切れ間にカメラのシャッターを押す、暗くなってからテント場に着いた。
 この夜は大変、夜中に一人息が苦しいと言い出す、気休めだけでもと入口を開けて寝た。朝目を覚ますと隣の人がガサガサやっている。「おはようございます」と言ったら、ホッとしたふうで「あまり静かだから心配になってたところだ」と言われた。笑いごとじゃなかったんです。
 昨日から食欲まるでなし、せっかくおじやを作ってもらったけれど一口も食べられなかった。
 この日は逃げるようにペリチェまで下山する、調子の悪い私が一番後方。このフラフラは三日続いて、ペリチェに1泊、続いて3800mのタンボチェに一晩過ごすまで消えなかった。
 タンボチェで目を覚ました時、昨日までのフラフラが嘘のように消えて足が地にしっかり着くのが判る。散歩していたら元気のいいヒマラヤラビットさんがカンテガに続く尾根に登り始める。私も急に思い立ち裸足に登山靴を履いたそのままで後に続いた。
 4200mの肩から見た山々は一番素晴らしかった。エベレスト、ローツェ、アマダブラム、タウチェは逆光で神秘的に見え、クンビーラ、コングデ、ゴーキョ方面の山々は朝日に染まり、そしてタムセルクとカンテガがすぐ目の前に迫っている。
 どのこと一つ思い出しても思いが募り思ったことの百分の一も書けない、言葉一つ見つけるのに四苦八苦、もう少し気持ちが落ち着いたら花のこと、動物のこと、インドのこと、病気のこと、食べ物のこと、お土産、etc、書きたいと思います。
 それから皆さんに一言....お金と暇があったら一生のうちに一度是非行かれるように勧めます、外人は老人が多かったです。特にO.Bのために。

ヒマラヤへの道
春原 君代

〈出発〉
 「ねえ、来年はちょっと大きい山やってみたいわね」「そうねえ、大きい山って外国でしょう?」或る日電話でこんな会話がありました。何となくその時既に三人ともその点で一致してしまっていたのです。動植物の好きな庭野さんは始めアラスカに執着していたのですが、他の二人はヒマラヤがいいと遠慮がちに主張して調べた結果、費用と行動範囲の大きさなどでヒマラヤを選んだのでした。かねてから一度でいいからこの目で白き神々の座の燦然と雲上に輝く姿を見てみたいと秘かに願っていたのです。どんなショックがどんな感動が私を打ちのめしてくれるのか。思い立ったが吉日、今ならできる今やらなければ....というので早速アルパインツアーに申し込み、機上の人と相成った訳です。

〈カトマンズ〉
 ゴチャゴチャと埃っぽくて気だるさが至る所に淀んでいるようなカルカッタから赤茶けた大平原を越えてネパールに入るとほっとさせられます。第一、歩けば必ず山にぶつかることが出来る、そんな見慣れた風景に安心してしまいます。カルカッタの混沌、無秩序に対してカトマンズの秩序だった印象、耕された畑、ゴミのない道路、ゆったりしているけれど勤勉そうな人々、盆地の周囲に霞む山々、そして4月(日本の5月くらい)の爽やかな風、何処となく日本のような匂いが漂っているのです。ニワトコの白い花が群れ咲いている農家もレンガ造りではありますが何となく異国という感じがあまりしなかったのは不思議です。
 人通りの多い街に出ると何処からともなく利発そうな目をした11才くらいのセーターにズボン、ズック靴という身なりの男の子が付いて来て、あちらの店こちらの店と案内しながら英語と巧みな日本でショッピングガイドをしてくれるのにはびっくり。詳しいのか騙されているのか判らないけれど、とにかく楽しいガイドでした。彼らはこうして自分のお小遣いや生活費みたいなものを得ているようでした。学校でガイドの仕方でも教えているのかしらと思われるほどに上手なのです。1月頃が一番客が多く儲かるそうです。「ここは人々は貧しいけれど幸福ですよ。パイサ・ツアイナ(お金がない)でもこうして暮らせますよ」と現地人みたいな格好の芳野満彦氏は冗談めいて乞食僧のように手を合わせて見せましたが、さもあらんかとも思われるところです。市街は今、郊外に拡張されつつあって道路補修やレンガ造りの建築が盛んに行われていました。トランスヒマラヤの職員は「日本人がこうして沢山来るからだ」と笑っていましたが、それだけでなく人口問題はこの国でも深刻なようでした。

〈山の人々〉
 カトマンズで予定より3日も多く足止めを食ってうんざりしていた私達も、待ちに待ったトレッキングがいよいよ始まると水を得た魚のように生気を取り戻しました。エベレストコースの一行7人は10人ほどのシェルパと共に2週間過ごしたのですが、彼らが日本人に似ているせいか、あるいはお互いに山地部族であるためか何となく気持ちの通じるところがあるようです。今になってみると山よりもむしろ彼ら一人一人の顔が懐かしく思い出されるくらいです。
 サーダーは16才の時からシェルパをしていると言うアンギャルツェンさんですが、大変小柄で自らよく動きとても気持ちの良い人でした。今、32才で大人といった風の父親と夫人と子供三人の家族で敬虔なラマ教の信者です。ナムチェでは彼の家に泊りました。二階の竈を中心にした家族共同体という風でプライバシーなど問題外のように見えました。シェルパ達は皆屈託のない人の良さそうな笑顔をよく見せますが、私達とはあまり喋る機会のないギャルツェンさんも、顔を合わせる度に何とも言えず心地よい笑顔を返してくれるのでした。大船に乗ったような安心感が広がります。唯一つ残念なことは日本語を話さない彼との間に誤解があって、そのまま帰国してしまったことです。ある日の夕方、お餅を煮ようとしたところが二つばかり土の上に落ちてしまったので私達が焼いて食べようと主張して「焼く、焼く」と言うと「ヤク?」とうなずいて、これで合意に達したとほっとした途端、二つの白い物は宙に踊ってそのままヤクの金ダライの中にポチャーンと落ちてしまったのです。思わず吹き出してしまった私達をギャルツェンさんは「?」といった表情で見つめているのですが、結局慣れない英語を話すのが面倒でそのままになってしまったのです。私達が物を粗末にすると思われるのは本当に心外なんですが。
 プヌさんという30才のシェルパの日本語の達者なのにはびっくりさせられました、くだけた言葉を実に良く知っているのです。69年のプレモンスーンにイタリア隊と共にエベレストのサウスコルまで行ったのがシャルパ活動の初めという彼は、同じ年ポストに北里大とマカルーに、その後は東工大、名大、大阪学院大、エーデルワイスのメンバーなどと同行しているそうで、なるほどと思いました。「山に登るのは好きか」と尋ねると、少し考えるように「ちょっと、ちょっとね」と言います。そして「エベレストに登りたいか」と言うので「是非登ってみたい」と答えると「大変難しいです、でもきっと登れるでしょう」と励ましてくれますが、こちらの内心ではもう諦めていました。それにしても眺めるだけの山はあまりに遠い存在に思われます。もっと身近に肌で山そのものを感じたいという気持ちに駆られます。でも、なるべくそんなことを考えないようにして歩きました。きっと病気になってしまうから....。
 山間の道にはマニ石という経文を刻んだ大小の岩がいたる所にあるのですが、彼は必ずその左側を額と胸のところで手を合わせて通り抜けます。ある時、意地悪く「左側が例えば河などで通れない時はどうするのか」と尋ねると「河の中に入ります、そしてそれはきっと私の最後のマニです」とニッコリ笑って答えましたが、それを聞いて何となくほっとしました。この地方では、神様は高い木を伝わって下界に降りてくると信じられているのだそうで、その拠り所として経文を刷った布をつけたタルチョという幟を家毎に立ててあります。コックのロブさんの故郷、プンキの部落の真ん中にあるのは文字通り天にも届くかと思われるほど高く実に印象的です。タンボチェのゴンパの裏にはこのタルチョの根本に石で造った小さな竈があり、付近の村の人は死ぬとここで焼かれるのです。アヌさんは竈の燃えさしを指しながら「私も死んだら同じだ」とペロッと舌を出して首をすくめて見せるので「私も同じです」と不思議な同一感を覚えながら答えました。この旅が終われば別々の世界に別れなければならないけれど、死んだら同じ所に行くのかも知れないと。
 単独行でツオ湖に行った時に会った若いシェルパは、ツオ湖まで案内してくれた帰りに是非寄っていってくれと言って、8畳くらいの広さの石積みの家でヤクのミルクと焼きじゃがいもをご馳走してくれました。この家でたった一つのティーカップをゴシゴシと真っ黒な雑巾で一生懸命拭いてくれるんです。何度も何度もカップを覗き込みながら。聞くと、彼も日本隊と共にマカルーやゴサインタン、マナスルなどに行ったとのこと。ビスケットとマンゴーの缶詰だけの私は思いがけないご馳走にあい、何か暖かいものに満たされて人影のないその小さなカルカを後にしたのでした。
 日本の牛追い歌や馬子唄に似た調子のヤク追い歌の上手なハクパさん。コックのロブさん、シェルパニたち。シャンボチェではそれらの人々に別れつ告げなければなりません。一期一会という言葉がふと脳裏をかすめます。けれど、この感傷もたちまちヒマラヤの脈々重畳と迫る力に圧倒されてしまいました。

〈再び....〉
 旅の余韻、未だ醒めやらず、タイムトンネルを潜ってきたような気分が抜けきれず、なかなか整理ができません。混沌とした思いばかりが先走ります。そのうちに。唯、今は色々な人達がいるんだなあということだけが実感されます。私達とは違う社会があるんだということ。そして私達が貧困から抜け出るために払った代償は何であったのか....。彼等もまたいつか、私達が後戻りできないと同じように、私達の道を進むのかと思うと、何かたまらない気持ちになります。
 今、私の目に浮かぶのは遙かなるマカルーの勇姿とシェルパ達のくったくのない笑顔です。それらは私を惹きつけて止みません。そしていつか再び、という思いは日に日に胸の内に広がっています。

日程
4月17日東京=カルカッタ(約10時間)
4月18日カルカッタ=カトマンズ(1時間)、午前中カルカッタ市内、マイクロバスで見学、カトマンズショッピング
4月19日カトマンズ郊外見学(休養日)
4月20日ロイヤルフライトのためルクラ行き中止、パタン市見学、ショッピング
4月21日ルクラへ向けて出発するも着陸できず引き返す。貸自転車で散歩、スワンブーなど。下痢、腹痛患者3人。
4月22日6時前にホテルを出て空港で8時まで待つがフライト不能で引き返す。
4月23日カトマンズ=ルクラ~チモア(ゲストハウスという山小屋に泊まる)
4月24日チモア~マムチェバザール(4時間)サーダーの家に泊まる(3440m)
4月25日ナムチェ~シャンボチェ(4時間)(3760m)
4月26日シャンボチェ~プンキ(2時間半)
4月27日プンキ~ミリンゴ(5時間)
4月28日ミリンゴ~ペリチェ(7時間)
4月29日ペリチェ~ビブレ(4570m)~ペリチェ(往復4時間半)
4月30日ペリチェ~ドウクラ(4620m)~ロブジェ(4930m)(庭野)
5月1日ロブジェ~ゴラクシェップ(5200m)~カラパタール(5545m)~ゴラクシェップ(庭野)
ペリジェ~ツオ湖(4687m)~ペリジェ(春原)(6時間半)
5月2日ゴラクシェップ~ペリチェ(庭野)
ペリチェ~シャザンピーク(5140m)~ペリチェ(平、春原)(6時間半)
5月3日ペリチェ~タンボチェ(3867m)
5月4日タンボチェ~シャンボチェ
5月5日シャンボチェ=カトマンズ(1時間)午後ショッピング
5月6日カトマンズ滞在
5月7日カトマンズ=デリー=東京
待ち時間を利用してデリー市内をタクシーで見学(約3時間)
5月8日東京着(午前11時半)、解散

(注)
トレッキング中の所要時間は当日の出発から到着までの時間で、昼食(大体1時間~2時間)のタイムも含まれている。
非常にゆっくりした歩き方なので、日本の山のように歩くと半分から3分の1くらいでの時間で済みます。=印は空路を示す。


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