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その4 私にとっての三峰
多部田 義幸

 山岳集団はいかにあるべきか?こんな事を聞かれても僕の頭ではどうにも解し得ないのが現実です。一つだけはっきりしていることは、組織と個人の問題であるということだけです。個人の意志を尊重した上で組織というものを考えようというのが三峰の原点であり、僕もそう思いますね。山岳集団の持つ具体的な方向付けや状態(空気)というものは、その時代を構成する人間達によって造られていくものだと考えています。それらの人間がどんな考えでどんな山を登るか(目指すか)により山岳集団の形は自然と変わっていくものです。三峰の現在の状態は我々が造り上げたもので、そのことに対してどうこうは言えません。三峰にとってはそれが一番自然な形に進んできたものだと思うからです。将来別の方向に変わっていったとしても、それはそれでその時代を構成する人間によって造られていくものであり、創立者の造り上げた伝統的方針を根底に置くという最低限のことを守り、そのことが自然な状態で進められているなら何も言う必要はないだろうと思います。
 現在僕個人の山行は三峰の主流的登山とは表面的にはかけ離れています。では何故自分が留まっているかと言えば、様々な要素はあるけれど今、僕は一番失いたくない自由な楽しい山登り、仲間という最低限のものが三峰にはあるからだと思います。今の三峰には組織としての具体的な目標や課題がなく、個人主義的な登山者の結び付きだけで成り立っているように感じられます。登山の世界は少数者の世界であって、個人あるいは個人主義の典型的な世界だと思っています。そこに一つの魅力を感じているのかも知れません。山仲間の結び付きというものは同じ条件で苦楽を味わい、その度合が強ければそれに比例して結び付きも深いものになっていくものと思っています。だからザイルパートナーだからどうのこうのということじゃなくて、ザイルを必要とし、それに全てを賭けるような苦しい登山をすることによって裸の人間と接することができるし、また自己主張をどこまでも言い合えるようになれる。結局はそこから真の触れ合いも生れてくるものだと思っている。表面的なことをワイワイガヤガヤやっていてもそこに深いものは生れないと思います。あくまでも個人にとって無理のこない個性的な山登りをすることを望んでいます。そこから自分がいま一番何を求めているかを探すことに集団というものを利用するということであってもいいだろうと思います。しかし、ここで問題となってくることは組織をまとめていく人間に対し多くの負担がかかってくるということです。
 今の自分には有名山岳集団でも多くの山仲間でもない、自分の目指す山をエンジョイできる力を最大限に発揮することのできる一人のパートナーが居てくれたら、今自分がどんな組織の一員であるということはあまり関係がないのかも知れません。個人的な力で充分通じる登山しか考えていないからです。将来、山を続けていった上で、もし個人的な域を超えなければどうにも欲求を満たすことができなくなった場合には、その時点で一番自己を活かす方向に動いていけばよいと思っています。良い意味でのメリットを求めいくのが自然だろうと思います。特定集団内の閉鎖的な縦の繋がりだけでなく、できることならこれからは横断的な山仲間との接触を図っていきたいと考えています。三峰山岳会はいかにあるべきか?などあまり堅苦しく考えると疲れて山へ行く元気もなくなってしまいそうだということが、僕の正直な気持ちかも知れませんね。個人の自由や個性の発見を第一に考え、全て自然の成り行きに任せることが良いのかも知れません。
 話は変わりますが、ジャズで飯を食おうとしている友達のところへ遊びに行って、数人の友だちが集まったりすると必ず音楽の話になり、のってくるとジャム・セッションをやろうなんてことになります。簡単なコード進行とテーマを決め、その辺にある物を使ってギターを弾く奴、ベースを弾く奴、パーカッションの代わりに鍋や丼をたたく奴、スキャットを歌う奴、コードとテーマという最低限の決まりを守れば後は個人の感じたままに自己主張ができる訳です。勿論自分のアドリブの時以外は全体のまとまりも考えなくてなりませんが、一人一人の音楽性が高いので実に自然に自由な雰囲気で楽しむことができます。山の世界もこんな風であったらいいだろうと思うことがあります。山岳集団の理想的形態は同人的組織ではないかと思います。
 僕個人が三峰に対してどうあって欲しいということは、今僕がどういう山登りをしたいかによって違ってきますね。そういうことを前提にした上で言えば、力のある山岳会であって欲しいと願う訳です。登攀を主体にした山行もできる会であってもらいたい訳です。現在いる会員にそれを望んでいる訳ではありません。若い人達が入ってきたなら少しでもこの事を考えて行動しなくてはならないと思います。このことは今年の春山合宿で身にしみて感じたことです。登攀というと変に気にする人もいるかと思いますが、実に楽しいものです。一度僕達を見物に日和田山へ遊びに来られたらいいと思います。がつがつした山行きをやろうなんて思ってはいませんよ。登山技術というものは登攀そのものだと考えています。また、その究極が冬の登攀であると思っています。勿論、山に対して別の捉え方をしている人間にとっては関係のないことかも知れませんが重荷の時などアーアー、モウイヤダなんて思っても俺はクライマーなんだ、他の奴らに劣るはずがない、なんて変に自分を励ましたりして無理して頑張ったりするんですよ。よく考えてみたら阿呆らしいけれど一種の憧れとか理想的なものとして捉えているのかも知れない。先輩諸氏と接する時もやはりこのことが自然と意識の中にあるようです。山岳雑誌などに泣きたいくらい険しい山の写真が載っていたり、どこそこの会がヒマラヤの山で初登頂をした、何ていうことをTVで見たりすると「ちきしょう、俺の登れる山がまた一つ減っちゃった」なんて思ったりします。自分は未だ大きな欲求や可能性を秘めていると思っていますし、山をやる上でいつも夢とか憧れの対象になるものを追いかけていきたい訳です。それが一つの青春の墓標なのです。勿論、それが夢なら夢であってもよいという軽い気持ちでいますが、そんな心の支えみたいなものがあれば、笑いたいくらい恐ろしい絶壁であっても少しは別の感じ方ができるようになると思っています。
 現在の僕はこんな風に山というものを見ていますが、別の捉え方をしている人間はそれをより発展させていくようにすればいい訳です。同一集団の中に違う角度から山を捉えようとしている人間が同居していても不自然ではないはずです。不自然であればどちらかが自然と消えていくでしょうから。登攀には命がかかっているだけに挑戦的なものやアドベンチャー精神を持った人間でなくてはならないと思っています。極端な言い方をすれば生命がどうのこうのということは考えたくありません。そんな訳からではありませんが、考え方のはっきりしていない、判っていない相手に対しては、こちらから積極的に誘っていくつもりはありません。脇道にそれてしまったのでこれで終わります。


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