トップページ > 岩つばめ一覧 > 岩つばめ229号目次

その5 三峰を考える
松谷 洋美

 集団と自己を対座させて考える時、それも自分から進んで属した集団に限って僕は何と不満の多い人間だろう。自己の理想と集団の現実が融合することは数少ないが、少なくとも僕にとっては全くあり得なかった。
 三峰に入会すれば、困難な山を組織だててやることはこの会には伝統として定着していないという不満、学校のクラブに重点を移せば困難な山はやれるが通年北アルプスばかりで、これまたつまらないという不満。集団の既成の伝統ばかりに期待して、伝統とは守るものではなく作るものだということが実践できない自分に対する不満。かと言って不満だらけで何とかしなくちゃいけないと思っても結局「たかが山のことだ、どうでもいいじゃないか」とすぐ結論を出してしまう、これまた自分に対する不満。
 しかし、色々不満はあるが僕は現在具体的には明るく山に登っているのだ。これはなぜだろう。それは三峰の人々にとってはあまりに率直すぎてひどい言葉になるだろうが、困難で組織だった登山(絶対的レベルで考えると決して困難でもないのだが)は学校のクラブでやれる。他の落ち着いた山行は三峰でやれるということである。二つがうまく噛み合って僕にとっての一つの理想集団を提供しているのである。それでは三峰を学校のクラブより下位に置いているのかというとそうではない。僕は学校のクラブを下位に置いている。参加山行日数はもちろん学校のほうが多い。が、僕の山行精神はいつも三峰の伝統の方に帰ってくるのである。久しく山に登っていない時、思い浮かべる山の情景は雪山でも岩でもなく、三峰が提供する自由奔放な藪、沢、草原である。同じ雪山、岩であっても学校のそれは何かを登ることによって求める悲愴さが漂っている。それは若き学生の青春の喘ぎかも知れないが、その点では僕の青春はもう燃え尽くしてしまった。
 三峰の伝統とは何だろう。自由奔放な山行と良い意味でも悪い意味でも企画化されない仲間集団と言えるかも知れない。これが長所であると共に欠点であるのは否めない。
 甲斐君が三峰を辞めた。抜群の体力と山に対する燃焼を求め続けた彼が三峰を辞めた。あまりにも当然の帰結と言えばそれまでである。そして彼の心境のようなものはこれからも三峰に対して誰かが問題として投げ続けていくであろう。が、それでも三峰の伝統は変わりはしない。老人から若者まで男と女、社会人と学生、これら全てが構成メンバーで山行方針は非企画化。これだけの自由な条件はそのまま各人の山に対する文化の多様化、良く言えばバラエティーに富んだものとして自由な三峰を作っている。登山文化の多様な三峰において誰かが現状改革の提案をしても他の多種の文化の内側から際立つことはできない。また、この状況で複数の人間が現状改革、革新を唱えたとしてもその複数の人間が提案する革新自体が既に多様である。「私は花を見に行きたい」「イヤ、俺は岩だ、もっと岩登りに重点を置け」「岩より組織立てたスケールのでかい冬山をやれ」革新を求めて論争しああでもないこうでもないと一生懸命、不満を唱えてカンカンガクガクにやっていてもその多様な革新はあくまでも多様な文化として妥協を許さないから結局、骨折り損のくたびれもうけで現状は何も変わらず。革新は保守に繋がるのである。この状況では一つの主張をその場限りでなく三峰の伝統に組み込むことは絶対に不可能である。一人の改革の主張は荒野に空しくこだまする遠吠えよのうにただ寂しい限りである。
 三峰の非企画化、自由奔放と言う伝統は組織としては掴みどころがなくて伝統らしくないようにも思えるが、しかしこれこそ甲冑で身を包んだ永遠に曲折しは立派な伝統として確立されている。強力な独裁権力を置かない限りは岩なら岩、ハイキングならハイキングと言うように一つの山岳文化に収束してゆくことは三峰の民主主義からしてどだい無理な方法であろう。民主主義が革新をもたらし改革が生まれるという理念は人間が過去幾たびも欺かれながらも、今なお捨てきれないめくるめくような幻想かも知れない。
 三峰の伝統、体質等には数多くの長所もあり短所もある。が、それをここに箇条書きすることは何にもならない。三峰の本質的な伝統は何があろうとも結局は自然に原点に戻っていくだろう。保守還元機能が三峰の体質に伝統的に組み込まれているからである。結局は三峰の成長は、三峰を愛せなければ箸にも棒にもかからぬ存在となるだろう。要は四季の山を愛し、ハイキングから冬山まで自由奔放に仲間意識を持って登っていれば事足りることだ。楽しめればどうせ山のこと、それでいいのである。つまらぬことだが、そのつまらぬことを伝統の最基部に設定した三峰。僕はそんな三峰からどうしても離れられないでいる。
 (付録)こうして何年か三峰に関係していると、僕の山岳文化は三峰という得体の知れないものに飼い慣らされてしまったことに気付く。かなり抵抗したつもりでもいつの間にかこうなってしまった。快い気分でもあるが、飼い慣らされたことに対する自分の非力を情けなく思う気分が半分以上ある。僕は自分を含めて三峰に、会社に、社会に飼い慣らされている連中に声を大にして次のように叫びたい。「おまえら、金玉はあるのか、金玉は」....国電の窓から見えた東京のビル群の一角からスモッグで薄汚れた空の中にフラフラとデパートのアドバルーンがカラッポの金玉のように漂っていた。


トップページ > 岩つばめ一覧 > 岩つばめ229号目次