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至上の愛 谷川岳一ノ倉沢衝立岩正面壁ダイレクトカンテ
多部田 義幸

 拝啓、いかがお過ごしですか、僕は今、三峰のルームから帰ってきたところです。気持ちが落ち着かず、それが何だか分かりはしないけれど、腹が立って仕方ないんだよ。ルームのあった晩はよくあることなんだけれどね。少し興奮気味でもあり、もし山の中であったならその何だか分からないものを吹き飛ばすため「ばかやろう」とでも叫んでみたい気持ちだ。こんな大都会の中ではそれもできやしないけれど。そのくせ、ルームのある日はルームが気になって仕方ないんだから。
 今日もまた人形の家へ向かってしまった。そしてアパートに帰ってみると白い手紙が舞い込んでいた。赤い観音菩薩の切手には山形山寺という消印が押されていた。山形に帰ったあいつからだった。青いインクが滲んでいるようだった。そういえば今日は雨だった。明日も雨だろう。二人だけの山行をしたことがなかった。山も全く違っていたのに、電話をすれば今にも会えそうな気がする。煙草の好きなあいつが禁煙してるなんて....僕にはどうすることもできません。僕だって煙草は止めたいんです。でも、どうにもならないことが多すぎます。
 遠い存在であったこの岩壁が、今この瞬間体に触れているではないか、この感激、この思いをどう表現したらいいのだろうか。酒でも飲んで騒ごうか、それとも岩壁を見上げて涙でも流そうか、ここまで来るのに随分長かったように思うし短かったようにも思う。僕にだって何がどうなっているのかさっぱり解らないんだから。自分自身が怖いんです、何処まで行くんだろう、何処へ行ってしまうのだろう。こんな疑問を感じているうちに、気付いてみたらエベレストの頂きであったりしたら、僕はどうなるのだろう。不真面目で不道徳、社会の批判を受けそうなこんな人間が伝統ある三峰の会員なのですから。今もまた、単独登攀に思いを馳せる雷登山者。
 小雨など気にならないくらい頭上に圧し掛かるオーバーハング。何処までも続いていそうな一枚の岩肌に打ち込まれているハーケンにボルト。今にも泣きだしそうな乙女にそっと優しく語りかけるように、その1本に全てを託す、ザイルが延びる....ぐんぐん延びる、パートナーの姿は霧の中に消えてゆく。風の音に消されてしまった声が遠吠えの如くザイルに伝わってくる。二人に孤独が、不安が襲いかかる瞬間である。霧と風の中を縫って「いいぞ、登ってこい」と風がパートナーの意志を伝えてくる。アブミの岩に触れる金属音が谷間にこだまする。ハングを越えると懐かしい顔が現れた。人工確保をしているパートナーは苦痛そうである。そのまま頭上を越えてザイルを一気に延ばす。長かったアブミ登攀、岩つばめが忙しそうに辺りを飛び回っていた。
 アブミに乗ってカラビナを掛け替えて....そんな単純な登攀でした。変わったことと言えばハーケンが抜けたことぐらいだろうか。僕の体は宙を舞いました。これで何かから抜け出せると思いました。でも不滅でした。パートナーが止めてくれたと思いました。嬉しくなりました。生への喜びじゃないんです。でも、ザイルはそれ程張ってはいませんでした。気を取り直して再び上のハーケンにビナを掛けようと思った時、1本のボルトに体が結ばれているのに気付きました。自己確保をしていたのです。
 新しいパートナーとの初山行は5月23日、一ノ倉沢衝立岩正面壁ダイレクトカンテにおける、天と地の空間の登攀でした。彼のことは何も知りません。ただ、山を岩壁を登りたいという情熱を持っているということだけです。それだけの繋がりなのです。今の僕達にはそれだけで充分なのです。中央稜は満員でした。目の前に聳える絶壁だけが僕たちを呼んでいるように感じられました。それだけで取付きました....不幸な人間の宿命なのでしょうか。
 FMからビートルズが流れています。懐かしさのあまり聞き入っていたら、もう2時になります。平和な瞬間です....アビーロードのビートルズ。
 彼女は実業家のお嬢さんでした。名前はクリスチーネといいました。クリスチーネは赤茶色の長い髪を肩まで垂らした昔気質の古風な面と現代的な両面を持ち合わせた利口な女でした。ジーンズを穿くとモデルのジュン・フブキとかいう女に似ていました。室の中を花で飾って空想にふけったり、ツルゲーネフの恋愛小説を読んだり、折り紙をしたり、星空を眺めて銀河系への入口を探してみたり、ジョン・コルトレーンのレコードを聴いてみたりするのでした。....僕はこの世で一番素敵な歌をクリスチーネに作って歌ってあげました。そして、クリスチーネが好きになりました。5回歌ってあげたら愛そうと思いました。生会で一番強い人間は誰ですか、とクリスチーネは僕に聞きました。きっとヒマラヤに居る雪男だろうと言いました。二人が語り合っている間に雨が降ってきました。もう春がすぐそこに来ていました。春の雨が降って来ました。傘がありませんでした。ガラス窓は曇ってきました。クリスチーネはガラス窓をこすり、そこからヴァレンヌ通りを走る車のライトが眩しく輝いていました。


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