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リターン・トゥ・フォーエバー(穂高涸沢)
多部田 義幸

 青く澄みきった空とお花畑。柔らかく広がり赤い花、黄色い花、白い花、ありとあらゆる色彩で埋め尽くされていた。見たことのない鳥が花の蜜を吸いにやって来た。お花畑の中に潜り込み、バターやっては飛び上がり、バターやっては飛び上がっていました。僕たちはそれを眺めていた。すると僕たちの存在に気付いた鳥は不思議そうな顔つきでこっちを睨んでいた。花の中に体を埋めると心地よい香りに包み込まれ、花びらを通して夏の光が眩しく輝いていました。
 長かった一日が終わろうとしていた。テントの中に一人入った時ホッとした。これが僕の正直な気持ちだった。いつの間にかひっそりと静まり返った涸沢に気付いた。でもすぐには眠れなかった。テントの外へ出て煙草を何本も吸った。煙草の火が吸うたびに傷だらけの汚れた手を照らし出した。煙草が消えると闇の中から黒々とした穂高の山が現れた。
 あいつが僕の目の前を滑り出した。必死に止めようとしているあいつが見えた。長い瞬間だった。そのまま視界から消えていった。どうすることもできなかった苦しさが体中を包み込んだ。とにかくあいつのいる所まで降りることに専念した。不安だった。我を励ました色々なことが頭の中に浮かんできた。
 意外と元気で冷静な彼を見た。スカーフで血止めをし、さらしで傷口を巻いた簡易な応急手当をした。そして、すぐ救助隊を呼びに行こうとした。でもあいつは自分で降りられると言った。もう穂高の山々は暮れようとしていた。下に見える涸沢のテント場には明かりが灯り、楽しそうな声がカール一帯に響き渡っていた。もしかしたら、僕はその場を無意識の内に逃げようとしていたのかも知れなかった。
 自分にしか判らないこと、あいつにしか判らないこと、二人だけにしか解からない思いがあるはずだ。だから何も言いたくないんです。
 岩を始めてから今まで一人で登ってきたような気がする。誰にも頼ることはできなかった。それが自信になったように感じる。あいつと組むようになってからも、トレーニングをする時はいつも単独ででも登ってやろうというつもりでやってきた。パートナーにあまり期待を持たなくて済むから。自分から離れていって、また一人になってもそのことをどうこう思わなくて済むから気が楽になる訳です。「俺はおまえと登ることができて良かった。充実していた。いつも思い切った登攀をすることができた。ありがとう。」
 5・6のコルを越えて奥又白に入った時、そこは涸沢とは別世界のように感じた。風もなく、人息もなく、静寂だった。二人で顔を見合わせた。....好きな子でも連れて優雅な一日を....なんてことに変わっているだろうか、来年の夏は。あそこが前穂東壁、氷壁の舞台になったところだよ。ほら右がAフェース、あそこに見えるのが奥又白の池、あれが松高ルンゼ....なんて得意になって説明してやったりしてね。
 涸沢の夜が明けようとしています。新しい一日が始まります。今日は三峰の人達が来てくれるんだ。そう思うと雨の降っていたことも忘れてシュラフに潜り込んでしまった。


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