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その7 穂高
熊谷 信之

 事故当日、一片の雲さえない透明の世界であった。今日は前穂高東壁だと念を入れるようにつぶやき、6時40分テントを出発。涸沢の雪渓を詰め、ガレ場を落成に注意し黙々と5・6のコルへと向かう。10時ここでルート図を開き。東壁のアプローチ、取付きを入念に検討し奥又側に下降、北尾根からの凄い落石に冷や汗を流しお花畑にて梓川を見下ろし、記念撮影を兼ねて一服。
 空間に突き刺さる岩峰の下に俗世界でも見ることのできるちっちゃな草花が同居して我々の気持ちの高ぶりを抑えてくれる。山に来てまでこのような陽光の中で一時の安らぎを得ることができるなどとは....。
 B沢の雪渓を詰め、四峰登攀者を尻目にトラバース、北壁側からの落石が多いため慎重に歩を進め取付きを探す。東壁はCBAフェースに三分され第一テラスと第二テラスとで区切られている。Cフェースは3級程度の脆い岩場でノーザイルにて越す。ハーケンの打てるリスもなく確保状態も非常に悪いため二人で声を掛け合いながら高度を稼ぐ。
 第一テラスにて昼食を摂りBフェースにアタック、人工の岩場をフリーで強引に乗越たため思わぬ時間がかかる。Aフェースは快適なフリクション登攀で岩も固く40分で頂上に到着(3時40分)。彼と固い握手を交わし「やったぞー」とつぶやく。
 4時、頂上から涸沢へと足を運ぶ、幾分疲れは隠しきれなかったけれど充実感を胸に北尾根を下降、3・4のコルにて下降路(3・4のコルから雪渓を涸沢へ下降するか、5・6のコルからか)を検討(5時)。結局3・4のコルから下ることになり腐れ雪を慎重に下り始めた時100mほど滑落、右岸のガレ場に10~15m突入し止まる。自分の体を止めようにもどうすることもできない雪の上の出来事に多部田氏の声が段々と遠のく、その瞬間体に鈍いドシーンという音らしきものを感じた時、まだ生きているんだと気付く。彼が駆けつけてくれる間、私は罪悪感のような何とも表現しがたい「しまった」という言葉を何度か口走った。周りの石ころが赤く染め抜かれているのに気づくのにそんなに時間はかからなかった。止血を済ませ「どうにでもなれ」というくそ度胸にも似た変な気持ちで彼の来てくれることを祈った。「もうだめかと思った」こう何度か呟き真っ青な顔で駆け寄り生きている姿が映ったのか一瞬笑みがこぼれたように思われた。幸いにも発見者から救助隊に連絡がいき、拡声器で何回となくコールを掛けてくる。とにもかくにも降りることだけに集中した。己のしたこと、出来事に申し訳ないと誰に言うのでもなく彼の肩に掴まっていた。
 見るに見かねてか6人ほどの救助隊員たちにより診療所へと運ばれていく姿に傷ついた体と不甲斐ない己に怒りすらも消え、なるようにしかならない自分に哀れみさえ感じ始めていた。
 多部田氏、岡田さんを始め救助に来てくださった別所、野田、山本、播磨四氏、それに三峰山岳会の人達にご心配、ご迷惑をかけ、一方ならぬお世話に預り感謝の気持ちで一杯でございます。ありがとうございました。


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