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北鎌尾根~槍ヶ岳 Ⅰ
桜井 且久

山行日 1976年8月21日~24日
メンバー (L)桜井、稲田、今村、春原、庭野

 「北鎌尾根」それは私にとって常に憧れの山であった。私が山を始めて加藤文太郎を知って以来、聖域と言っても過言ではないくらい神格化していたのである。その北鎌も今では幾多の岳人達が踏破し、夏ではアルピニズムの発祥の地の面影さえも失っているのが現実である。しかし、この未熟な私にはあくまでも未知の世界であり現実に処女ルートですらあるのである。そういった妙な緊張感を持って計画し実践した山行であった。
 8月21日(土)、夏山第二合宿として多人数の参加を希望したのであるが、今回も第一合宿(会津駒ヶ岳ー御神楽沢遡行)同様個人山行に毛が生えた程度で新宿駅を発つ。それでも播磨、山本両氏ならびに稲田夫人の見送りを受けて少しは意気が上がったようである。夏山最盛期は外したものの、まだまだ混雑の激しい新宿駅を後に早朝、信濃大町駅に到着。ここから七倉まではタクシーを利用して入る(相乗りをすればバス代と変わらず)、ここで登山計画書を提出し高瀬川流域のダム工事のためザックを預ける。荷物は東電が東沢出合の先の小屋まで運んでくれるので空身のサンダル履きで快調に歩く。埃と排気ガスを撒き散らす40tダンプに圧倒され登山者は道端を細々と歩かねばならない。索漠とした工事現場を見ながら文明社会の恩恵と自然破壊の画像が交錯し複雑な思いに駆られる。そんな嫌な思いを断ち切るかのように黙々と林道歩きを続けると突然開かれた湯俣に到着した。この辺りで各自夜行の疲れがどっと出てきたようで簡単な食事の後に眠り込む。しかし、この日は北鎌沢の出合まで遡る予定のため眠気を払いのけながら重い腰を上げる。千天出合まではコースガイド等には載っていないが2ヶ所ばかり嫌なトラバースがあり緊張する。雨など降っていたらかなり難儀するのではなかろうか。出合で大休止の後は天上沢を遡るがほんの踏み跡程度のため意外に時間がかかり疲労が濃くなった頃、北鎌沢出合に到着。先行パーティは2組で静かな夜を迎える。しかし、日が長いためいつまでも明るく、差し入れの日本酒を飲んでももう一つ盛り上がりに欠けたような気がする。なにしろ今回は私を始めとして無口な人々の集まりであり、かえって山の静けさと相まって神秘的ですらあった。
 8月22日(日)、さて今日は憧れの北鎌尾根の長い岩稜歩きだと張り切って起きると、空は今日一日の好天を約束するかのような青空であった。北鎌沢は昨日の偵察通りに右俣を進む。何回か小休止を繰り返すと別に何の問題もないまま稜線に突き上げる。ここで初めて硫黄、西鎌尾根の明るい稜線に対面し北鎌の核心部に入ったことを実感する。天狗の腰掛までは結構急な登りで若干ガレて嫌な所がある。腰掛からは独標が恐ろしいほどの迫力で聳え、いったいどこから登って良いのやら不安になる。ところが独標直下に来てみるとチムニールートも意外に易しいと甘い判断。案の定、重荷を背負って強引に登ろうとした私が4~5m転落の憂き目にあう。落ちた瞬間、毎度のことながら自分の軽率さが恥ずかしくなって腹が立ってきた。冬山では決して許されないミスであった。すぐに、あっさりとルート変更し岩壁基部をトラバースすることに決定。しかし、ここも途中のガレがかなり不安定で緊張する。雪が付いたり天候悪化の時はかなりの難ルートとなるはずである。稜線に突き上げるのも岩が非常に脆く落石を繰り返す。この辺りまで来ると槍の穂先が聳え眺めも素晴らしいが、疲労の方もピークに達し数十分の歩行でバテてしまう。しかし、庭野、春原のヒマラヤコンビは少しも疲れの様子を見せないため、私も腰の痛みなどでとても弱音など吐ける状況ではなかった。それでも北鎌平からは頂上直下のチムニーで荷物を引き上げた以外は割合あっさり山頂に到着。まったく、ひょっこりと山頂に突き上げるという表現がぴったりの程、最後はあっけなかった。ここで肩の小屋からの登山者に頼んで記念撮影をする。とにかく5人の歩調を整えながら、北鎌を登り切った充実感に満たされながら爽やかな気持ちで下っていく。しかし、私だけは腰の痛みがピークに達し、安心感も手伝ってか一人下りがはかどらない。全く情けない気持ちでテントに入る。
 8月23日(月)
 昨日のアクシデントにも拘らずどうにか槍ヶ岳は越えてきたものの腰の痛みは依然引かず弱気になる。おまけに天候も風雨と変わったため迷わず槍沢下降となる、ただ私の身体のことで他のメンバーに迷惑をかけ、一緒に下山させることになった(天候悪化もあったが)のは悔やまれて仕方がなかった。稲田氏は仕事の都合で早朝一人で下山したが、我々は判断に迷ったため昼近くになってから下山開始となった。しかし、ペースは遅々として進まず今夜は徳沢泊まりとなる。「氷壁」の舞台となった徳沢園はキャンパーや若きクライマーの集団であふれ、私のようなロートルはただただおとなしくするのみであった。ここまで来れば自動販売機もありギターの調べもあり、無限に伸びる明るさがあるのである。しかし、このひねくれ者の私には上高地の華やかさはどうもすっきりしないのである。何故なら、私の青春時代はあまりに不安定で生臭く、常に迷路にはまり込んで未熟なりにもがいていたからである。いつの時代にも活発で明るい青年の群像があると同時に沈思黙考している若者がいるのは確かであろう。それは車の両輪のように対応し合いながら総体としての若者像を作り上げているのであろう。どちらが正しいか否かというのではない。ただ徳沢での明るさが私の肌にどうもしっくりしないというだけなのである。その反動なのかどうか分からぬが社会人になってからの私の表面的な順応ぶり(明るさ)は異常なほどであるのかも知れない。しかし、その姿こそが人間が生き延びる自然な姿であるかも知れないのである。そんなようなことをテントの中で考えながら、単独行を続けていた数年間が思い出されたのである。
 8月24日(火)
 穂高岳までの縦走を貫くことが出来なかった無念さを少しでも補足せんと今村、春原両氏は徳本峠越えで帰京するとのこと。二人とも早朝から張り切って出発するのを日和見主義の桜井、庭野はシュラフに入ったまま見送る。それでも9時頃にはもたもた起きてテントを撤収しバス停まで歩く。もはや騒がしい上高地などに用がある訳はなく、さっさとタクシーに乗り帰京と相成る。

北鎌尾根~槍ヶ岳 Ⅱ
今村 信彦

 期待と不安、そして憧れの北鎌尾根。以前の例会には体力的、技術的、経済的と三拍子揃って不安があり参加できず、それ以後何度思いめぐらしたことであろうか。しかし、今回も自信があった訳ではなく何度もためらったが、この機会を外すともう一生行けないのではないかと思いバテバテになることを覚悟の上、参加することにした。それにしても合宿と名の付くものに参加したのは何年ぶりのことだろうか。一つ釜の飯を食い、狭いテントで寝て、日帰り山行では得られない味わいがあり、また思わぬことを発見でき大きな収穫だった。
 初日のただ眠気のみ、単調で長いアプローチ、しかし十分な覚悟の上だからであろうか意外と短く感じる。湯俣より道はずっと悪くなり本番以上に緊張した場所もあった。もうここまで来れば後には引けない。グッと身が引き締まる。予想以上に何もない北鎌沢右俣。独標チムニー以外、技術的は何ら問題はないがボロボロの岩稜の登降、トラバースには随分緊張させられた。これほど苦しく恐ろしい山行などもう二度と来るまいと思いながらも槍の穂先に立った時は「よしまた来よう、次回は下半分もやらねば」という気になっていた。初めての北アルプス、そして本格的岩稜縦走、怖さ苦しさを忘れ楽しさのみが頭に残っている。今回の山行を機会に私の山に対する考えや意欲も変えさせられたような気がする。最良の仲間と天気に恵まれ、思い出深い山行となった。


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