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その1 ただ今独身
春原 君代

 私はこれまで色々な人と出会いました。人ばかりではなく本や音楽、そして山もまた私が出会ったものの一つなのです。
 幼い頃、山は私にとって単に環境であり、季節の移り変わりそのものに過ぎませんでした。登る山という意識は全くありません。遠足なども辛いばかりで小学校6年の時の燕岳登山では水筒一つ持ってもらったことがひどく嬉しかったものです。今になってこれ程山に心を向けようとは夢にも思いませんでした。
 けれども想えば、あの燕が初めての山らしい山で、その印象の強烈さは初めての経験でした。眩いばかりの残雪の白さと豊かな深緑が織りなす深い谷を前にして山頂の喜びを知りました。それは、まだ私の足を山に向かわせるほどの力を持ってはいませんでした。やがて、富山での学生生活。立山連峰の麓にあっても尚、山は学舎の屋上から眺める、遥か彼方に連なる雪の殿堂でありました。けれどもそうした日々のある夏の一日、一人の友人とまだ人気の少ない浄土に遊んだことが私と山との付き合いのきっかけになりました。それは薄雲が空いっぱいに広がってあまり明るくはないけれども、空気の澄んでいる時でした。私達は這松の中に寝そべってその強烈な清浄な植物の香りに息をつまらせながら遥かに重なる山並みの美しさに目も心も奪われておりました。その時突然、孤高の山が何か語りかけているように思われたのです。冷厳、静寂、寛容、優しさ、至高の美、ありとあらゆる崇高なものがそこには存在していました。誰にも賞されることを期待しない、この人知れぬ世界。何のために、誰のためにかくも美しいのか、私達は永い茫然と言葉もありませんでした。
 そうして何年か過ぎました。その間に私は、また雪の素晴らしいことを知りました。一種の恍惚の世界です。光をいっぱいに浴びて純粋無垢の新雪の中に佇み語る。雪山への想いは募り、その手段として山を歩いたのが入会1年目のことでした。実際、雪山は苦しさも、充実も、空しさも、痛みも、矛盾も全てを飲み込んだ喜びをもたらしてくれました。そしてそれは更なる山へとエネルギーを向けさせます。
 「出会い」は「感動する」ことと同じです。それは心の琴線に触れ、身体を震撼させるもの、そして何らかの精神的物質の分泌を促すもの。あらゆるエネルギーの源泉。愛すること。「感動」は若さの特権ではありません。老いて尚感動し、怒り、燃えるということは素晴らしい。死の瞬間まで燃えるのは理想。そんなエネルギーを持続させたいと思う。自分自身の感覚を開放し、より多くの出会いを求めていきた。自分自身が開放される場所、それは今の私にとっては山が一番大きな所のようです。
 とりとめのない抽象的なこと、つらつらと書いてしまいましたが、何も理屈は要らない、ただ心が惹かれるというだけ。
 中学校のこうしゃの正面玄関にあった額を想い出します。「ふるさとの山に向かいて言うことなし、ふるさとの山はありがたきかな」異郷に苦しみ傷ついて故郷の村に戻った啄木を無言で暖かく迎え入れ、心を癒やしてくれたのは、あの岩手山の雄々しくも優しい姿でした。山にこれと決めることのできない様々な豊かな魅力があります。至って感覚的で研究心の乏しい私は、唯憧ればかりで山に向かいます。少しばかり頼りない気も致します。


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