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その7 単独行を考える
別所 進三郎

 単独行について何か書けと言われて、はたと戸惑ってしまった。大体私には一人で山に行ったことはあるが、単独行をしたなんて言える手合いのことなんぞはやっちゃいないと疑いを持ってしまうからである。
 そこで単独行を考えるということになれば文太郎やナオミみたいに「生まれながらの」とか「危険中毒性」と言われるようなバックグラウンドを持ってなくとも、自分のことは同角沢の遺言棚の下に置いといて「ああ言えば、こう言う」的な批評家に成りすまし、何々イズムとか、何々論的方向性をもってとか言う語と漢字の多い文章にして「単独行者のより努力と反省を促す」等の形にして終われば何となく恰好がつくのではないかと思ってみたりした。が、岩つばめはお互いを知っている会員同士の機関紙であるから三峰の鬼編集長にまた脅されるのが恐ろしいので「今日は外で遊びました。お昼を食べてからまた遊びました。夜、寝る時間ですよと言われたので眠りました。終わり。」式の日記調や山渓の特集「単独行と文太郎」から色々取り繕って体裁を整えたところで、これまた意味のないことでこの機会を生かして日頃思っていることを正直に文章にしておくべきだと思う。岩つばめに寄稿するということは赤の他人が読んでくれようとくれまいと、自分の文章が他人の手を経て岩つばめに公表されたということと、他人ではない会員がこれに対してどう感じるかなあと思いめぐらすことに意味があることで、実際に岩つばめを手渡された時、真っ先に読むところは会員の誰しも自己の書いた文章であり、それにうなずき何遍も読み直してその文に対する一番厳しい批評家もしくは讃美者とばり、本人が一番楽しめるものだからである。
 そういうことを考えると何とか納得のいく文章を書きたいと思うが、普段文章を書き慣れている訳じゃないし、頭の方も整理されていて押せばスーと考えが纏まるようにはなっていないのでこれが大変なのである。大体、独断でテーマを決めそれを勝手に振り分け、早く原稿を出せ、出さねば娘を売り飛ばすか女房を質に入れ耳を揃えて20両持ってこいとの無理難題、御上の権威を笠に着て弱者をいじめて私腹を肥やし、天下を乱す狼藉者。この場に及んでまだ白を切るのか!そういう輩はこの私が許さん、格さん、助さん、今日は思う存分この悪代官を懲らしめてやりなさい....。
 えーと、この原稿何のこと書くんだっけな。あっ、そうだ単独行だっけ。でもこの次ぐらい「岩つばめを考える」副題として「岩つばめに寄稿する労力たるや、一つの山行為すよりも大なれども、何故会員は岩つばめに文章を載せねばならぬのか」といったような特集を載せたら....。けれど、私には指名しないでね。では、単独行を考えてみます。
 昨年春、丹沢の外れにある谷太郎川の沢を一人で詰めてみました。地図を読んで充分日帰りできると判断し、トコトコと出かけたのでした。その沢は雲稜会の「丹沢の山の谷」にも載っていない遡行概念図なるもののない所として選び、5万分の1だけ持って行きました。その沢は出合からしばらくは踏み跡がありましたが、その奥は少々ヤブくさかったが連続した滝や廊下状の所もあり、一人で嬉々として静かな遡行を楽しんだのでした。核心部と思われる所を過ぎてから支稜に取り付き、獣道を経て登山道に至りその道を利用して下山しました。この山行は二つの試みがあり、両方とも成果がありました。一つはたとえ近郊の山でも案内書に出てない登山道のないような所を行けば、まだまだ大いに自然を楽しむことができるのではないかということ。即ち山登りをスポーツとしては割り切れない考え方をする私にとって山に抱かれていたい、自然に接していたいことが私の好むところであるからです。この延長上にはアルプスの無名支稜から無名尾根を経て主稜線上の登山道まで突き上げる山行とか秩父の苔むした原生林のワンダリングとかが考えられ、ルートを選べばまだまだ身近な丹沢辺りでも一味違った山行が楽しめることを実証してみたかったのです。
 もう一つは私なりの単独行を見つけてみたかったからです。北極単独横断や太平洋一人ぼっちとかいうスーパーソロにも通ずる何かの糸口を捕まえられるのではなかろうかと思って(こんなカッコつけた事を言っちゃ遺憾な、ただ単に久し振りに一人歩きを味わってみたかっただけなのに....)。とにかくたった半日だったけれど都会を離れてのヤブ漕ぎ、沢遡行は心身共に洗い清めたと訳ではないのですが、その夏一人で馬場島~剣~立山~五色と至る登山道、そして江村君のいる船窪小屋へ黒部湖に落ちる支稜の一つを選んで登ろうという予定で妻子を残して出かけた。雨の中、早月尾根は初日ということもあり、伝蔵小屋に予定通り着きましたが、2日目は日頃のトレーニング不足がたたり立山山頂までがやっとでした。3日目は五色経由を諦め内蔵助平へ下る時は心身共にメロメロになり、その後の予定を全て破棄してその日のうちに帰京してしまいました。今までの登山でこんな風に山から追い返されたことはありませんでした。2日目からは絶好の天気だったのです。歳を感じざるを得ませんでした。原因は日頃の仕事上での疲労が鬱積していたこと、精神的には「こんなことをして良いのか」という疑問、生後3ヶ月の息子のいる家族を考えての叫び声に対してまともに取り組むような気持ちになってしまったことが上げられます。独身時代の感傷的、そして恐怖の念を持って自然を感じとることに没頭できる単独行から見れば、世帯を持ってからの単独行は精神的に異なるのは当然ですが、独身時代の単独行こそ真の単独行ができるんではないかと思うのですが....。
 単独行はその諺の通り「他と無関係に各自随意になす行為」なのですが、その段階といきさつによって幾つかのカテゴリーに分類してみました。
 A. 山登りを始めたばかりの単独行者、案内書もろくすっぽ読んでいず、本当は誰かに連れて行ってもらうか、初心者の者同士でああでもないこうでもないと言いながら、やればいいのだがそれもままならず、仕方なしに単独で始めたばかりの者。
 B. 案内書べったりの単独行者、案内書のコースタイムより早く歩いたとチェックしては喜び、山小屋のおやじ、途中出会った人からも積極的に情報を集め、案内書をチェックするために山登りしているような感じ、他の単独行者と同行することが嫌いで同じコースを何回も歩いたりする。
 C. 自分の単独行スタイルが固まってきつつある者、案内書こそ最も頼りになるものとして最優先するが、経験も大分踏んできて山岳会などのやっていることも知っており、グループ登山も経験して、単独行で危険に遭遇した場面も何度かあり、より高度な広い範囲の山行には単独行に限界ありと思うが山岳会に入るにはちょっと抵抗もある。山域が結構広くなっている者。
 D. 若い頃、学校の山岳部等でやっていたがその後山から遠ざかり、週休2日制になってから山をぼちぼち始めた者。若い頃、行った山へ好んで行き、自分の若い頃に比して現在の弱くなった自分をぼやく。しかし、単独行はあまり続かず職場の女の子や町会の子供を連れて歩きボーイスカウトのリーダーみたいなことに熱を入れたりする。
 E. 歳を取ってから山登りを始めた者、末の娘も嫁に出したし暇もあり常にマイペース、人生の栄枯盛衰を達観している感じで、何とか旅行会で群れをなして歩くことなんぞ好まない。結構続けている人は山装備なぞ廃物利用して独特のものがある。
 F. 若く、山岳部または会に属していて時々単独行をやる者、やる場合は日程上の都合で単独にならざるを得なかったり、所属のクラブの選定した山より行きたい山が他にあったような場合であり、山づいちゃって休みに山に行かないのが異常に感じるくらい乗っている時期にふと単独行をやることになった者。
 G. 山岳部や会を終了または辞めて単独行専門にやっている者、そのいきさつ指向はバラエティに富んでいる。
 こんな風に分けることもできるんではないかと考えてみました。もちろん例外や各段階を跨いでいる者、そしてD、E、F、Gは段階ではなく、するいきさつにより分けてみたものです。そうしますとちょっと荒っぽいのですが、A、B、Cは独身者が多く、D、Eは既婚者が多く、F、Gは両方いると考えましょう。またB、Cの経験を経ている人の特徴として装備が固まっていると言えましょう、いきなりグループに属して集団登山から始めた者は合宿等で共同装備を持たされるから、必要最小限に個人装備を抑えなければいけないが、とかく同行の誰かをあてにしたりして個人装備に属するものが欠けていたりする。だが前記経験者は単独行時にこれは必要だと裏付けされた装備はグループ登山するにあたって、他の人に割与えられている場合でも何となく持参してしまう傾向にある。中にはおまじない的な意味でどうしても持ってきてしまって装備が重複することがある。また彼らが山岳会に属してグループ登山をする初期は先頭を歩きたがり歩行ペースも速く、リーダーに二、三度注意されたくらいじゃなかなか改まらない。また独身者の単独行は精神的な面から見れば、異性を想っての感傷がテーマになってしまうのがほとんどであろう。
 さて、敢えて人里離れた山の中に一人ポツンと居ることは日常生活の中からは出てこないことです。そこには物理的に孤立していることを精神的な面で補おうという作用が必然的に働くようです。それも、街の下宿先で一人きりにいるのと異なってその精神的な作用とは人を想うことに集中し、独身者は心当たりある異性を、妻帯者は家族のことを想うのではなかろうか。実際にはその日の行程上人との出逢いがあり、その想いは脳裏をかすめるだけかもしれないが、単独行は他人への気遣いに煩わされることなく自分自身について自問自答する機会をの場を与えてくれる。それは街のカラクリの中でない、自然の中にいることにより自分を率直に見直す気持ちになるからである。その意味で山登りの動機が極めて娯楽的なところから始めたとしても、何故山に登るのだろうという疑問により早くぶつかり、自己の本心とまともに関わり合わざるを得ない。そして、自然の動向に責任を持って見定めなければならない故、集団登山で見過ごしがちな現象についても注意深くなり、その分楽しめるのではなかろうか。グループ登山は山の良さを人数分だけ薄めてしまうとは言わないが、私の独身時代の単独行は常に山に負けそうになって逃げ帰ってきた印象がある。これからも機会を作って単独行をしたいとは思うが、昨年の経験からせいぜい日帰りくらいが適当と思っている。泊りの山は息子が自然に驚異を持って感ずるのを横から楽しむ家族登山の方が単独行・集団登山と違った楽しみ方だと考えている。歳を取ったらただ一人で死んでゆくための準備としての単独行をとも思い浮かぶが、実際そうなったらその歳になるまでの過去のことを怖いまでも突き詰める単独行になって、単独行がいたたまれなくなってくるのではなかろうか。
 老いたら三峰の若い人に連れて行ってもらうのが一番だなあなんて考えているのである。


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