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前編 馬場島~五色ヶ原
木村 恵子

山行日 1977年7月23日~30日
メンバー (L)下司、木村

 7月23日
 じりじりと暑い上市を経てようやく馬場島に辿り着いた時は夕方の5時だった。幕場探しにうろうろしている我々二人をよそに周りは楽しい宴会気分。数人が蛇口の所で溢れんばかりの生野菜を鼻歌交じりで洗っている。食料の軽量化を図って野菜をごく少量に控えた私達には恨めしい光景。こういう事を予期して上市にてたらふくお腹を膨らましてきたはずなのに....寝溜めと食い溜めはできないらしい。憧れの早月尾根入口付近の大木の下に二人用の小さなテントを張り、これからの頑張りを誓いあった。
 7月24日
 どういう訳かこの私が起床係でマッちゃん(下司さん)が就寝係。(ズルイー)とにかく二人しかいないのだから責任逃れができない、3時起床。4時30分出発と先ずは好調の出だしである。天気は多少曇り気味。ペースを崩さずマッちゃんリーダーにぴったりくっついていこう。絶えず心に言い聞かせて黙々と足を運ぶ。松尾奥の平からの剣岳は気の遠くなるほど遥か彼方にある。意外と真面目に1時間歩いて10分の休憩を1200m地点まで続けた。急登で背中がぐっしょり。休むとたちまちひんやりした。600m地点辺りから200m毎に標識が立っていて、あと何m何mと心で計算しながら歩いていたのに、1200mを過ぎてからはなかなか次の標識が出てこない。登っても登っても出てこない。そろそろ1600mくらいはあってもいいはずなのにとぼやいていると、ひょっこり1800mの標識が出てきて急に嬉しくなった。今までの緊張感がふっと消え去り気を良くして大々的に休むことにする。パンにレモン水、ドライフルーツとリーダーは美味しそうにパクパク食べている。それに比べてこの私と言えば景色ばかり眺めて....と言うより悲しいことに何も入っていかない。日頃、食べることが私の唯一の生きがいであると信じて疑わないリーダーも、さも不審そうに私の顔を覗いては食べよ食べよと急き立てる。パンをかじっては水で無理に流し込む動作を繰り返しながら自分の体力の無さに意気消沈してしまった。烏が近くまで飛んできてカァーカァーと何と語りかけているのかしら....。時折ガスが発生、視界ゼロ。ちょこちょこと休み休み歩いていくと大きな雪渓に出合い、下から流れ出る冷たい水を何杯も息をつかず飲んだ。雪の上で滑ったり転んだりして遊んでいると楽しくて先に進むのが嫌になってくる(本音)。背中の重い荷をかばいながらエッチラ、オッチラ息をハーハーいわせて登っていくとパッと視界が開けてそこに伝蔵小屋があった。思わず「バンザイー」なんて叫んだら途端に元気が出たような気がした。小屋で飲んだビールが死ぬ程おいしかった(PM2時)。楽しい夕食時には五目寿司、ワカメとキュウリの酢の物、それに彼女自慢の高野豆腐の煮物、夕焼けを眺めながらの食事は格別だ。マッちゃんが私の誕生日にと思いザックの中に大きなグレープフルーツを二つも潜ませてきて私の心を泣かせた。差し入れのワインで乾杯し花火を上げ、生涯忘れられない誕生日となる。
 7月25日
 東京を出て3日目。初めてのピーク剣岳、2998m。伝蔵小屋のおじさんの話より遥かに時間がかかった剣岳、行けども行けどもなかなかその頂きを見せなかった憎いほどの剣岳、あー来たんだね。あの写真で見たその頂上に自分達がこうして立っていると思うとこの瞬間がウソのようだ。さっきまで晴れ渡っていた空が雲で覆われ周りは白の世界となった(11時30分)。
 何をどうしたのか剣沢キャンプ場に着いたのがひどく遅くなった。夕食のカレーを急いで済ませたのに既に7時を過ぎている。皆んなに絵葉書の一つでも書きたいのに時間はどんどん過ぎていく。その上、書こうとすると頭がガンガン痛い。薬を飲んでとにかくシュラフに入ったが眠れない、何度も寝返りをうつ、もう2時間は経ったような気がする。翌朝そのことを彼女に話すと同じようになかなか寝付かれなかったと言う。二人で考えてみたところ原因は剣の下りにあったらしい。岩また岩の迫力。見ている分にはどうってこともない所も大きな荷が背中にあっては思うようにいかない。剣を終えると今度は前剣。気がつかないうちに緊張していたらしい。それにしても一服剣から見た前剣はドシーンと雄姿を構えていて私の目に鮮明に焼き付いて離れない。
 7月26日
 天気は上々、昨夜の頭痛もうそのようにすっきり。ピンク色の朝陽は私達の気持ちをすこぶる爽やかにさせ勇気さえ与えてくれる。この朝陽のおかげで私達はまたトッコトッコ歩き出した。空が抜けるように青いので御前剣まできて荷を下ろし、限りなく透明で新鮮な空気を思いきり手を広げて吸ってみた。いくら深呼吸しても空気は無限大にあって、私は大声でも出さないとその空間に飲み込まれ消えてしまいそうだった。「ヤッホーッ」と叫んだら「ヤッホー」と声の違うコダマ?が帰ってきた。真下にミクリヶ池、ミドリヶ池、室堂が見えてきいよいよ雄山か?いや大汝山。ガスがサッと消えコバルトブルーの黒部渓谷が顔を出す(あっという間)。何度も期待を裏切られいささか呆れ果てた頃、雄山に到着(10時20分)。ここは本当に人が多い。下りはもっとひどい。ガラガラのうえ、小学生の大集団がずーっと下まで続いている。思わぬ所で時間を取られる。やや急いで龍王岳を通過し鬼岳東面の雪渓まで来る、ここのトラバースは要注意。前の二人組がスッテンコロリンやってるのだから恐いといったらない。滑ったらオダブツ。この若い命をこんな所で決して....などと思うと下にズズーと滑り落ちていく自分の姿が浮かび上がってくる。意を決して取付くとさほどのことではなく笑い話に終わった。一歩進むと今度は一面お花畑でのどかな気分。白、黄、ピンクの花がそよ風に一斉に揺らぐ、花が小さければ小さいほど愛らしい。このまま難なく五色ヶ原に着くのであればこんな幸せなことはないのに、また登り下りを繰り返す。時計は3時を過ぎる、またどんよりと曇り始める。ガスも出てきた、道を間違えた感じになり地図とにらめっこ。だらだらと登り喘いで顔を出したら別天地のような広々とした五色ヶ原に出た。名のごとく原っぱが遠くまで続いていて私のイメージとぴったり合った。しかし、これで山の上とは信じがたい。五色ヶ原ヒュッテでまたもやビールを買ったら半分以上はマッちゃんに飲まれてしまった。これはまさしく伝蔵小屋でのビール事件の仕返しに違いない。
 私たち一行はヘナヘナと倒れ込むように槍見温泉の玄関先に座り込んだ。靴の紐を解く力さえない。もう何があったって動けやしない。ほとんど足の感覚がない。これが限界だと思った。しかし、この満足感と幸福感。どう表わしたらいいか分からないまま「よくやったね」「やった、やったよくやった」「やったやった」ただそんなことばかりを連発していたように思う。座り込んだまま乾杯のビールを飲み干したので喉がキューッと快ちよかった。見ると真っ黒に日焼けしたマッちゃんが笑って私の顔を見ていた。

後編 五色ヶ原~槍見
下司 真知子

 今はもう秋の気配も深まり黄金色の麦畑が眩しい。あのジリジリと焼けつく太陽と滴る汗のしずくは何処へ消えたか。
 高山見物を終え、新幹線の中で食べ残しのオヤツをパクついた時も実感はなかった。
 初めて、そして今後も体験することはないであろう7泊8日、北アルプスの旅。私とメグちゃんの生涯忘れ得ぬ旅....・
 よく頑張ってくれた、このか弱き、イヤ、逞しき足さん、ありがとう!!
 7月23日(土) 晴天
 ぽっかり飛び出した日本海。長岡の白い砂浜と水着姿を見て、「みんなには内緒でずーっとここで泳いでようか!」と軽く冗談を言ってみたっけ。その時の弾んだ声が今も時間を超えてゴムまりのように耳元でささやかれる。
 午後5時、馬場島到着、さあ、いよいよ戦闘開始。がんばろうぜ!!
 7月27日(水) 晴れ
 起床、2時50分。
 ここはのどかな五色ヶ原キャンプ場。馬場島を出てから4日目の星空を仰ぐ、夕刻、天幕を張るまでは何ともわびしく切ない思いがするのだけれど、この夜明けの一時にいつもの幸せな気持ちになる。間もなく白々と夜が明け稜線が黒く浮かび上がり、そして間違いなく太陽がその顔をひょっこり覗かせてくれるはずだから....。
 ところでどうも喉が渇く。昨夜の塩漬けのイカの戻し方が足りなかったらしく、その食当にイチャモンをつけると「まあまあ」と笑顔一つで誤魔化される。
 起床から出発までの準備にも大分慣れてきた。4時5分、澄み切った空気の中を出発。昨夜、雨を案じて掘り起こした溝はその役目を果たさないまま白く跡を残しているだけ。一夜の宿としたこの五色ヶ原を発つにつけ、全部刻み込んでおかねばと焦る。たかが10cmくらい掘り起こした溝なんかすぐに消えてなくなるのだろうし、この大地の小さな一角に我ら二人が過ごしたことなんか覚えていてくれるはずもない。ただ、自然の悠久さに圧倒されながらフラフラと歩を進める。槍の穂先が遥か彼方に見えた。
 今日は薬師岳を越え峠までの行程。朝日に輝くなだらかな草原を抜けると急な登降が鷲岳、越中沢岳、そしてスゴノ頭まで繰り返される。空は青く爽やかな風も吹き雪渓を見つける度にミルク氷、蜂蜜レモン水を作り舌鼓を打つのだが何とも暑い。バンダナを潜り抜けた汗が目に滲みポタリポタリ、鼻の先端より滴り落ちる。足も重い、もはや岩ヒバリの声もウグイスのさえずりも何の慰めにもならない。予定より遅れがちとなりスゴ小屋にて行程を縮めることにする。
 13時30分、間山キャンプ地に到着。就寝までたっぷり時間がある。夕食の切り干し大根を戻しながらグリセードやらFM鑑賞やら優雅なひと時を過ごす。多くのパーティが入っており笑い声が聞こえ合唱が聞かれる。賑やかだ。
 7月28日(木) 晴れ
 3時起床。またもや晴天に恵まれる。今日こそ薬師岳に登るぞ!! 間山を過ぎ北薬師近くまで来ると山並みが前後左右から一斉に浮かび上がり自然に心が高鳴る。稜線は白く続き左手の鋭く削られたカールがすごい迫力!、焦る気持ちを抑えつつ岩を飛び跳ね鼻歌交じりに闊歩する。小休止の羊羹がとっても美味しい。
 9時5分、薬師岳登頂。2928mの頂上は暑く展望は雄大この上なし。入道雲が豪快に湧き上がり我ら二人を歓迎してくれているよう。その歓迎に応えるべく大休止を取り大展望を満喫する。後は太郎平までゆっくりした広い尾根を下る。この縦走に入ってから随所で雷鳥にお目にかかったけれど、ここでは親子連れに出合う。あまりの可愛さにザックを投げ捨て四つん這いになって後を追う。何とも奇妙な光景だったに違いない。
 振り返るとシナノキンバイの咲き誇るその向こうに薬師が遠くなっていた。
 12時35分、太郎平キャンプ場着。のんびり夕食に取りかかる。メニューはキュウリとワカメの酢の物、ポテトスープ、そして赤飯、インスタントじゃない白いご飯を食べたいと痛感する。
 7月29日(金) 晴れ
 2時40分、半分寝ながらの起床。ラジオの音と懐中電灯の灯りにかろうじて目を明ける。4時40分、出発。太郎山を越えると心地よい風の中に最終目的の笠ヶ岳が格調高く見える。山ひだが幾重にも重なりどっしりと構えた姿はまさに日本画的風格。剣、薬師の岩また岩から一変し、ここは緑の絨毯をびっしり敷き詰めた穏やかな山容が続く。その中に居て今までの緊張が解きほぐれていくのが分かる。
 笠を仰ぎつつ旅の終わりの近づきを思い寂しくなる。前方の黒部五郎岳へは頂上まで一気に登り、雪解けのせせらぎを聞きつつ一挙に下る。南面は薬師に勝るとも劣らない大きなカールが広がっていた。
 ここで面白いエピソードを一つどうぞ。
 我々の前で男の人がレモンミルク氷を美味しそうにほおばっていたのですが、私はさして気にもとめていませんでした。ところが突然何の前触れもなくその男の人がメグちゃんに向かって「これ食べませんか?」と食器ごと差し出してくるではありませんか。私はよく理解できなかったのですが、本人は無意識のうちにその彼の口元をじいっと眺めていたらしいのです。何とこの時の恥ずかしかったこと!結局お断りしたのですが小さな声でぽつり、「食べたかった....」にはただただ呆れ返るばかりでした。
 12時10分、黒部五郎小屋着。メグちゃんの足の水ぶくれ(日焼けによる)がとうとう潰れる。ひどく痛そうだけれどもうひと頑張り双六小屋へと急ぐ。途中、霧が発生し3時過ぎより大雨となる。道がいくつにも分かれており不安が募る。
 PM4時45分、双六に到着。挽きたてのコーヒーを飲みながらお月さんとにらめっこ。
 明日はとうとう笠ヶ岳か....!と二人してぼやく。
 7月30日(土) 晴れ
 気のゆるみか出発が遅れて5時15分。顔に浮腫が出ている。それでも今日一日で終り。弓折岳まで朝露を浴びていくと左手より槍、穂高連峰、そして焼岳、乗鞍岳、木曽御嶽山が一望できる。この景色は筆舌に尽くし難く、ポカンと口を開けて見惚れる。そして最後の山、笠ヶ岳までは一歩一歩感慨深げに歩む。
 11時35分、笠ヶ岳登頂。やったぜ!!二人してVサインを送り握手してウインクして、レモンを齧って喜び合う。頂上はガレガレでケルンが不気味に人間の丈の倍も積み重ねられていた。
ーーーはて、もう登る山がない!ーーー
 後はクリヤ尾根を槍見に向けてひたすら下るのみ。何とこれがまた長くて嫌らしい。軽くなっているはずのザックがやけに重い。足元ばかり見ていたら忽然と錫杖岳の岩場が現れる。首を一捻りしてまた外界へ向けて下る下る。汗とホコリにまみれての急降下。車の警笛が....、あっ白い道が....。高山までのマイクロバスの中、顔がニンマリ微笑んでいたっけ。


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