トップページ > 岩つばめ一覧 > 岩つばめ233号目次

北鎌尾根独標
能地 繁則

山行日 1977年8月13日~21日
メンバー 桜井、梅川、鈴木(隆)、中村、柴田、能地、下司、木村

 何と嫌な朝なのだろう。どんよりと曇った今にも雨が降るような空。昨夜の熊の襲撃に今日の行動食は奪われ、この先は登りしかない一日が来た。歩いては休み、登ってはまた休み、ようやく独標下に着いた。独標を直登したい!!だけどもしという気持ち。妻にはもう岩登りはしないとの約束もあるし、ただ成り行きを見守るだけだった。どうせ登るならトップで登りたい、トップ以外では登ったことがなかったし、それを許してくれた昔のパートナーのKのことが思い出された。そのうち我が山岳会の女性の勇敢なこと、何と登り始めたではないか。最後はとうとう私一人が下に置き去りにされてしまった。もう登る以外にはなかった。
 私の荷物は既に上に荷上げされてしまっていた。久しぶりに岩に触れた。最初の一歩は左足で立った。スタンスを探り右手が体を引き上げてくれた。折れた右手が私の全体重を引き上げてくれたのだ。もう妻との約束も生まれてくる子供のこともすっかり忘れていた。
 やっぱり岩登りは楽しい。アブミが岩に触れてカランカランと乾いた音をたて、カラビナのパチンという音、ザイルは真っ直ぐ上に延びている。落ちても止めてくれるだろうという安心感と充実感の中で今一歩一歩頂きを目指して登っている。
 2ピッチ目はトップに立った。S君やU君もトップで登りたかったろう。だけど俺だって登りたかったのだ。もう太陽が沈みかけていた。時間がない。暗くなる前にこのチムニーにザイルを張らねば。
 そしてセカンドが登り終えた時、辺りは暗くなっていた。まだ下には六人の仲間と8個のザックが残っている。この上に2張りのツェルトが張れるだろうか。
 荷上げを半分済まし頂上を目指した。辛うじてツェルトの張れる所を探し全員が独標の頂上で会ったのは夜も更けてからだった。
 空には一面に星が煌めいていた。槍ヶ岳が目の前に黒くどっしりと聳え立っている、流れ星が二つ西に流れた。
 明日は槍を越えて大阪に行こう。
 自分のために、そして妻と生まれてくる子供のために独標を越えた。

無題
柴田 静子

 未だに実感がない。私、本当に登ったのかしら....と首を傾げてしまいそうである。初めての槍ヶ岳。今までは遥か彼方に聳えるその美目秀麗(?)な山容に憧れ続けてきた。どこから見てもそれと判る。すっきりと且つ雄々しく聳える槍ヶ岳....今回の山行も二つ返事で参加を決意したものの、出発が近づくにつれ不安は募るばかり、4泊5日などという日程はむろん初めて、まして北鎌である。同行の皆さんに迷惑は掛けまいか、この軟弱な身体が耐えてくれるだろうか、etc....。
 天上沢出合で迎えた初めての朝、出鼻をくじかれた熊騒動。憎っくき熊公メ、行動食をほとんど持っていきおった。できることならば熊さんを前に「何も貴方様のために荷揚げした訳じゃなし、まあ人(?)それぞれ事情はあることだから....」とせめて半分なりと返して欲しかった。ー カレーパンとアンパン非常に楽しみにしてたのに ー。
 新聞やテレビで熊が出没するというニュースは聞いてはいたものの、実際に体験するなど今だに「まさか」の心境である。
 気を取り直し北鎌沢出合へと向かう。この日、私の吊橋のイメージがもろくも崩れた。私にとって吊橋ってものは二人並んでも渡れるくらいの幅があって、歩くと多少揺れるぐらいで....。ところがこの日トップの中村さんが吊橋と称したシロモノは何と丸太(しかも細目のである)1本をポンと両岸に渡し、その上に乗ってちょうど両手を軽く上げた辺りに両岸の木から2本のワイヤーが渡してあり、太めの針金がその2本のワイヤーと丸太とを何ヶ所も結んでいるといったものである。これが?まさかこんなの吊橋なんて....嘘でしょ?これは吊橋なんてものじゃない。吊り丸太とでもいったほうがピッタリのシロモノである。ワイヤーと丸太を結ぶ両脇の針金にひっかかりバランスを崩しては立て直しながら一歩一歩丸太の上を進む。心臓はドキドキと動揺が激しい。足下には急な流れが見える。水はきれいに澄みいかにも冷たそう、落ちてはならないと歯を食いしばりワイヤーを持つ手に力が入る。
 ドキドキはこれで終わるかと思いきや、独標直下のチムニー登攀をするという、若き乙女二人はやる気十分、ただ一人私メが少々いや大いに不安な思いで登攀準備を見守る。後から来たパーティが怪訝な面持ちで通り過ぎガレ場の巻道へと進んでゆく。
 いよいよ私の番だ、すがるものはザイルただ一つとばかりに意を決して挑む、何も考えられない。ただただ頂きへと心がせく。アブミにうまく足がかからない。ザイルに頼る。ウーンあと一歩....ホッ。ロッククライミングに腕力は必要だとつくづく感じる、引っ張り上げてもらったくせに私の両手はぐったり疲れていた、時間がかかる。辺りはもう夕暮れの気配。山の日没は早い。四苦八苦している私達を尻目にその色を増す。
 不安な思いで這松を漕ぎ、ひょっこりと出た独標で見た星空の槍ヶ岳。一瞬声を呑む。無数に輝く星屑を背景になんと美しくなんと高貴に聳えていることか!! この槍の姿を見ることが出来ただけでもういい....。実に美しい。槍と私とが対峙し他の一切が切り放された深閑とした山の夜気が私達を包み、私の胸の奥底にある何かピリピリと冴え反応するこんな感慨は久しぶりである。
 槍の頂上に立てたことも嬉しかった、涸沢で待っていた三人に会えたことも嬉しかった。そんな喜びの中でさえ、星空の槍がどっしりと脳裏に焼き付いていた、こんな思いが多くの人々へと誘うのだろう。
 炊き過ぎたゴハンも辛過ぎたカレーも今は懐かしい、涸沢ではもう食べ物を受け付けなくなった私の胃、己の軟弱さには臍を噛む思いで上高地に下ることばかり考えていた。横尾を過ぎ梓川の清らかな流れに目を奪われながら口数少なく川沿いの道を闊歩(傍から見たらヨタヨタ....かも)する。上高地に近づくにつれすれ違う人々の出で立ちが変わり、世の中にこんなにも多くの色彩があったのかと今更ながらに驚く。それに引き換えこの私、ザンバラ髪に疲れ果てた顔、汗の臭いを辺りに撒き散らし性別さえも定かでない。しかし、心は至って満たされていた。最後まで歩いてくれたこの足が愛おしい、よく頑張ってくれた。もう二度と来ることはないだろう北鎌にこの両の足は消えることのない足跡を残してくれた。
 キレットで見た谷底から吹き上げてくる霧雨混じりの強風に必死に耐えて咲く可憐なイワカガミとあの槍の雄姿を胸中に秘め私の夏は終わった。


トップページ > 岩つばめ一覧 > 岩つばめ233号目次