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会津朝日岳
山柴田 和子

山行日 1977年11月3日~4日
メンバー (L)川田、江村(真)、須貝、山柴田、林田

 あれは昨年11月2日、上野発22時13分長岡行きから始まります。メンバーはもちろん奥只見の川田さんがリーダー、そしてこの山行が気に入れば入会をという江村さんのお兄さん、何となく優しそうな面白そうな(失礼)須貝さん、相変わらずザックの中には何でも入れてくる林田さんと、ついでに実家に寄ってこようとちゃっかり思っている私の5人です。混雑していた車内も土合を過ぎるとまばらになり、途中から乗車された川田さんが大きなキスリングを持って現れるとまもなく小出に到着。只見線の始発が出るまで1時間半あるので、待合室で林田さん持参のおにぎりを食べていたら駅員さんがお茶をあげるからと言われるので図々しくも二人でのこのことお茶をいただいてくる。おにぎりも上等でお茶も熱くとても満足。その時駅には私達の他20名くらいはいたのでしたがどうして5人分だけ貰えたのかなと思うのですが、よほどひもじそうに見えたのでしょう。周囲も明るくなり窓から見える風景も美しそうなのですがなにせ眠くて、只見線の1時間半はぐっすり寝込みました。只見駅に着いたのが7時15分、2台のタクシーに乗り登山口の赤倉沢出合へ。8時、紅葉にはちょっと遅いが天気はまずまず。地元だということでか私がトップ、次に林田さん...。40分くらい歩くとやはり気持ち悪くなってきた。初日か二日目に必ず来るもので、先ず一本。川田さんがトップはこういう風に歩くものだと言って先頭に立ち、その後に続くうちにどうやら落ち着いてきた。さほど急登でもないのに汗が出てくる。ただ川田さんの足だけ見て登る。急に川田さんが脇のヤブの中に入る。ナメコを見つけたらしい。すぐ林田さんもそこへ。ナメコなど少しも興味のない私はその間休めて大変結構。少し歩いてはまた横道にそれるのでベースの叶の高手に着いたのが12時40分。今日中に頂上まで行きたいので急いでテントを張ろうとするのだが場所が狭い。あれこれと苦心惨憺してやっと2張り出来上がる。いよいよ朝日岳への最後の登り。歩き出したと思ったらまたすぐ川田さんがナメコの群落を発見。私を除く四人はそれにむしゃぶりつきたいところだが時間があまりないので帰りの楽しみにして先ずは頂上を目指す。14時10分、思ったより簡単に到着。意外に狭く周りを見ると同じような形をした頂きがたくさんある。標識がなければ分からないほどだ。我々の他にはたった一人。川田さんは夏に来たばかりの丸山岳を懐かしそうに眺め、須貝さんはカメラをパチリパチリ、江村さんはスケッチブックに、私と林田さんはチョコとカリントウを。カメラとの距離がない、この際全員アップに耐えてしまおう。さっき残しておいたナメコはちゃんと待っていてくれた。四人は早速飛びつく。たちまち大きなビニール袋いっぱいになって四人にっこり、その顔があまりかわゆいので記念にパチリ。夕食はナメコ入り豚汁と焚き火で焼いたアジの開き。須貝さんと林田さんのニンベンのつゆと味噌のミックス豚汁、とても美味でしたよ。焚き火の大好きな江村さんのお兄さんを林田さんが「焚き火おじさん」と命名。翌朝目を覚ますともう火は点いていて11月の奥会津の寒さなど全く感じませんでした。大収穫のあったナメコは川田さんの大きなザックに入れられ登山口で四人に仲良く分けられました。川田さんはこんな事もあろうかとキスリングで来られたそうです、さすが。またまたここでも焚き火を囲んで昼食を摂りちょっとのんびり。9時30分、ここから日沢部落まで一歩き。林道をてくてく歩いていると道脇に直径4,50センチの杉の切り株が5,6個転がっていたのです。それを見た林田さんがどうしても一個持って帰ると言い出し、私はもうびっくり。都会の人というのは何でも欲しがるんだナあー。ザックの中身を全部取り出し切り株を入れその周りに衣類等を詰め込み、なにせ自分一人では起き上がれないのです。歩くたびに左右に揺れるし私はもうずっと笑い話。それでも林田さん、ちゃんと千葉の家までその格好で帰ったそうです。丸太だけで14キロもあったというのに。白沢からは都会の人四人と丸太一個はタクシーで只見へ、私は只見の叔母の車で実家に。その後あの辺りの山火事のニュースは聞きません。きっと火は無事消えたのでしょう。


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