大東亜戦争(第二次世界大戦)の始まるちょっと前の古い話でご免なさい。昭和16年9月のある日、ちょっと粗忽な友人と二人で三ツ峠に行った時です。
当時の中央線は浅川駅(現在の高尾駅)から先は単線で汽車ポッポに乗って(未だ電化されてなかった)レールの継ぎ目のゴトンゴトンという子守唄のような音を聞きながら大月を過ぎて初狩駅に来ると列車はスイッチバックして停車、次の笹子駅でも同様のスイッチバックの停車、知らない人は「あれさ汽車は東京さ帰るのけー」と思ったに違いない。待つことしばし、本線は準急列車が通り過ぎていく(当時の中央線は急行列車はなかった)。
さて浅川駅を出た列車は小仏峠の長いトンネルを出ると相模湖駅、当時の与瀬駅です。東京を出る時は青空であった天気が峠を越えて与瀬駅に着く頃は今にも雨が降り出しそうな天気に変わり心配していると駅員が「よせ、よせ」と叫んでいるので山行を中止して帰りたくなることも、ままありました。次の藤野駅はなく上野原、四方津、梁川、鳥沢、猿橋、大月となり富士山麓電気鉄道(富士急)に乗り換え小沼駅「現在の三ツ峠駅」に下車しました。
当時の三ツ峠山頂の山小屋は現在と変わりありませんが、三ツ峠山荘の中村璋氏によりますと四季楽園が大正時代に、他の白雲荘、富士見山荘、三ツ峠山荘は昭和に入ってから建てられたとのことです。頂上直下の岩場は休日でも少数のパーティが手製の道具を使ってロッククライミングの練習はしていましたが、山頂は静かでのびのびしたものです。現在はマイクロウェーブの中継装置が乱立し、その工事のために清八林道より資材搬入道路ができたのを利用し山荘ではジープを使って物資の荷上げ、クライマーやマイカー族は車で途中のダムまで入り、一般登山者は河口湖駅よりのバスで裏三ツ峠下車等々、コースも大変短縮され賑やかなものです。
頂上で充分展望を楽しんで母の白滝コースをとり河口湖村まで下山しましたが、バスはなく河口湖駅もなく富士吉田駅まで歩きました。当時は木炭バスが出始めた頃で、道悪の所では婦女子を残して乗客全員下車させられ後押ししたものです。
どうにか山行も終わり大月駅に着き、上り新宿行きの汽車を待つことしばし、既に夕闇も迫りホームには薄暗い裸電球が灯っていた。やがて到着した列車の空席を見つけた粗忽者の友人は『おばさんお願いします』とリュックを席に置いてくれるよう頼んだのです。すると彼のおばさんは片手でリュックを軽々と持ち上げるではありませんか(凄い力のあるおばさん、頼もしいー)。
当時は主食、衣料、ガソリンは切符制になり食糧不足もそろそろ深刻になり始めて、隙を見ては買い出しに行ったものです。その時代汽車の乗り方は窓より出入りしたり、席の取り方も荷物を早く席に置いた者が勝ちという具合で彼もその癖が出たのかも知れない。
先に車内に入った友人はがたがた震えながら戻ってきたので、何事かと聞いたが指を指すばかりで話が判らない。仕方なしに頼んだと思われる席にいってみると、窓際にお角力さんがでんとして座っている横にリュックが置いてあるので初めて事の次第が判ったのです。おばさんと思ったのは実は角力さんで、浴衣がけにセッタ草履、髪は後で束ね少々色黒の若い角力さんでした。
当時の本場所は両国の国技館で一月と五月の二場所で夏の地方巡業も終わり、私用で里帰りした帰途と思われた。私から重々お詫びしましたが友人は天下の力士をおばさん呼ばわりしたので殴られるのかと思い怯えていたのでした。車中で話しをしているうちに仲良くなりまして笑い話になりましたが、このお角力さんもお国のためという名のもとに戦地へ行ったことでしょう。
まあこんな具合で昔の山行の車中でとんだ粗忽話の一席でちょうど時間がよろしいようで、では次回をお楽しみに。