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冬山合宿 厳冬期の北鎌尾根
桜井 且久

山行日 1977年12月31日~1978年1月8日
メンバー (L)桜井、中村、鈴木(隆)、梅川

はじめに
 今、指の凍傷と風邪に悩まされながらこの原稿を書いています。念願の積雪期北鎌、「遂に終わった」そんな一言で片付けるには余りに陳腐過ぎると思う。しかしながら、それ以外どう表現していいのか全くわからない程、私には充分刺激的な山登りなのであった。
 毎回冬山を終えると大なり小なり「空虚感」がつきまとうものであるが、今回の山行は私自身の登山生活(たかだか10年くらいではあるが)において最もショッキングであり、完遂後の「虚しさ」は過去にも未来にも経験し得ないものと思われる。私が山登りを始めてから加藤文太郎、松濤明といった私にとってはカリスマ的存在である「登山家」が遭難した〈北鎌尾根〉、これさえ登ったら私はいつでも山登りを止めるつもりでいた。また、それ以上の私の存在を賭けるようなパイオニア的登山は私には無縁なものと思われたのである。その細やかな「夢」が終了した今、私自身の登山目標を失ったも同然であろう。やはり充実感より虚しさが先に立つものである。毎度のことながら山は当分遠慮するつもりである。少なくとも青々とした緑とサンサンと輝く太陽光線の存在しない山なんて....。
 私にはとても植村直己のような持続的な未知へエネルギーは存在しない。今はとにかく「安息の時」が必要なようである。ましてや今回は山頂付近にて二重遭難の真っ只中に遭遇し、私自身も常に〈死〉の恐怖に怯えながら必死の思いで下山してきたのである。とにかく冬山を終えた感慨よりも4名とも無事下山できたことに何よりも祝杯をあげたい。念願の北鎌の稜線は連日の吹雪にて私のあらゆる想像を遥かに超える最悪のコンデションでもあった。正直なところ、誠に情けないことにこんな山は二度と繰り返したくないと終始思い続けていたのである。
 三峰山岳会の諸氏にも中途半端な気持ちだけでは是非とも冬山を差し控えていただきたい次第です。遭難を恐れては冬山はあり得ないが遭難防止のためには万全を尽くすべきであり、やはり遭難は如何なる場合にも起こすべきではないと痛く感じざるを得なかった。私達の場合は渡しを除く3名が谷川岳等で十分トレーニングを積んでくれていたおかげで私のようなお荷物まで引っ張り上げてくれたのだと感謝しております。ただ、4名全員参加のトレーニングが夏山合宿以外なかったことが悔いが残るものの中村、梅川、隆の誰をトップに立たせても安心してこの私は後からついていけたのである(もっとも私自身は恐怖におののいていたのが現実であるが....)。

12月31日 雨
 三峰年寄り隊は鹿島槍ヶ岳に既に出発してしまっていた。その為、我が北鎌隊は一利、島田両名の暖かい見送りを受けて30日夜半雑踏の新宿を後にする。大町よりタクシーにて葛温泉近くのダム工事監視所まで入る。天候は2日前より生憎の雨で芝工大パーティが下山しビバークしている様子である。今冬は暖冬続きで入山早々雨に降られかえって嫌な予感がする。一向に止まない雨の中を念のために持参した雨具を各自身に着け長いトンネルを7ヶ所通り抜ける。何度来ても高瀬川流域はダム工事で殺風景なことおびただしい。おまけに初日から雨ときては全く憂鬱にならざるを得ない。本日は湯俣までの予定であったが、この思わぬ雨で手前の小さなトンネルを見つけ早々とテントを設営する。食事の用意をしていると稜線にてみぞれにやられたという数パーティが下山してくる。入山早々、依然止まぬ雨にあい私達も北鎌なんぞ中止して松本駅周辺で遊んで帰ろうかと真剣に議論される(?)。都岳連の先行パーティと鹿島槍隊の動向が気になってくる。やはり湯俣にテントを張らないで被害を最小限に食い止めることができたために我々の適正な判断を自画自賛する。

1月1日 雨のち小雪
 朝起きるとやはり雨。しばらく様子を見ていると続々と先行パーティがぐしょぐしょに濡れそぼって下山してくる。私達もすっかり意気消沈し停滞を決め込む。中には偵察、荷揚げ済みのパーティもかなり含まれているようで、明らかに〈無念さ〉を表情に表している。しかし、昼近くなると雨も小降りとなったため我々は大至急テントを畳む。盛んに渋る隆、梅川両君を説得し念願の北鎌への可能性を伸ばす。途中、都岳連の顔見知りの「アルペンクラブ・アルファ」の連中も下山してきたが我々はとにかく千天出合まで行くことにする。夏でも若干緊張した嫌なトラバースが1ヶ所あったがP2取付きの吊橋までどうにか到着する。出合近くに来て小雪がちらつく、丸2日掛かりの長いアプローチに改めて「北鎌尾根」の重みを体全体で感じざるを得ない。冬期ルート取付き点に我々の他に2パーティ入山しているようである。小雪がちらつきやっと冬山らしい冷えた夜を迎える。明日からの稜線への突き上げを思いファイトが湧いてくる。冬山は何と言っても熊の心配がいらないのが救われるのか、全員安眠したようである。

1月2日 小雪
 4名とも早起きが苦手と見え2パーティに先行される。それでも、P2への登りはやけに傾斜が急であったが、ここ数日の雨のためか俄然雪の量は少なく非常に救われる。途中何度も木登りとも岩登りともつかぬ登りを繰り返す。P2直下の岩場は若干緊張したものの先行パーティのフィックスザイルを利用させてもらう、4名の体調もかなり順調のようであり、おのずからピッチを稼ぐことができる。P2より北鎌のコルまでは他パーティの荷揚げ品を見ながら我々も「今夜は何が何でも荷揚げ食糧を食う」とばかりに張り切る。しかし、途中小さなコブがいくつもあり、いい加減嫌気が差してくる。そうこうするうちに待望の天狗の腰掛けに到着することができた。目の前に風雪の独標を望み、いよいよ北鎌のハイライトである。残念ながら隆、梅川両君が必死で荷揚げした食糧、燃料が見つからずに途方に暮れる。どうやら、根雪のくる前に熊に荒らされたようでスコップで発掘すると残骸ばかり出てくる。ワインとウィスキーは無事見つかる。しかし、食糧はともかく燃料が見つからず先行き不安になる。やむを得ず明日以降の食糧、燃料計画を立て直す。何故、我々はこうも熊にくるしめられねばならぬのか憎っくき熊に思いをはせながらワインを飲むが、当然意気が上がらない。夏山では笑い話で済むが冬山では我々の死活問題である。独標基部と山頂に先行パーティの明かりが見える。風雪も心なしか強まりロマチックな気分より、やはり真剣に明日以降の天候回復を祈らざるを得ない。半分以上のパーティが下山したため、どうやら我々が今正月最後のパーティであるかもしれない。途中、何度も風雪と寒さのために目が覚める。我々はいよいよ冬期北鎌のピークに突っ込んでしまったようである....。

1月3日 吹雪
 風雪にて夜が明ける。それでも今日は肩ノ小屋(悪くても北鎌平)のつもりで行動開始とする。基部までの一見何でもなさそうな所で早くもザイルを出す。堅雪のうえに昨夜からの親切が積もって意外に手間取る。風も次第に強くなりザイル確保を行いながらラッセルを繰り返す。基部に到着し夏山にて奮闘したチムニールートはガチガチに凍結しており止むなく千丈側のトラバースルートを選択する。トラバース早々に極めて不安定なラッセルと上部より落ちてくるチリ雪崩に悩まされる。先行パーティのフィックスが残されているものの無雪期には想像できない難儀に出遭う。千丈側にスッパリと切れ落ちている岩と雪のトラバースにアタックザックを引っ掛けながら何度か冷や汗をかかされる。オーバーハング気味なトラバースが2ヶ所ありトップはピッケル、アイスバイルのコンビネーションと12本爪アイゼンの蹴り込みでどうにか乗り切る。40mザイル1本にて4名確保するためどうしても時間を食う、トラバース後の独標直上ルートが完全なアイスバーンの急斜面となる。こうなるとザイル確保はほんの気休めとなってしまう、各自神経質過ぎるくらいに気を配り必死となる。必然的に時間を食い独標山頂に到着する頃にはすっかり夕暮れとなってしまう。心身ともに疲れて果てる。どう見ても二度と通りたくないルートであった。それでもすぐ横に先行パーティのテントが一張あり、若干気が緩む。槍ヶ岳方向は吹雪に隠れてその勇姿を一片たりとも我々の前に現さない。どうやら隣のパーティには女性がいるようであり、今日一日の我々の恐怖を考えると愕然とする。私は食欲も湧かずとてもはしゃぐ気持ちになれない。食糧、燃料ともに最悪の場合を考えて節約ムードで使用する。若い二人も大分疲れたと見え弱音を吐く、時々突風が吹いてくると寒さが身に堪えるが疲労のためか知らず知らずに寝込んでしまったようである。まだ極限状態ではないようである。全員、明日こそ快晴を夢見る。

1月4日 吹雪
 前日にも増して厳しい風雪となる。しばらく様子を見るが残り少ない食糧、燃料を考え槍ヶ岳を登り切るつもりで出発する。とても昨日のルートを下山する気には恐ろしくてなれない。出発早々、ルートファインディングに迷い考え込んでいると隣のパーティが追いついてくる。何と山岳同人「風(フウ)」(横浜山岳協会)の女性3人パーティであった。ここは恥も外聞もなくルートを尋ねると、リーダーの女性がアイスバイルとピッケルの絶妙なコンビネーションでルートを切り開く。トップは一瞬の気の緩みでも必ず宙吊りになる。彼女の度胸の良さに感心せざるを得ない。彼女らも私達も盛んにコールを掛け合いながら登るが同じルートを後から通って、えらくしょっぱいのに気付く。改めて彼女らの技量に驚かされる。風雪の中で現在地がなかなか確認できないまま、ザイルを先へ先へと伸ばす。風も増々強まりトップも厳しいがラストも厳しい。なにしろ寒気と風で足と手がじんじん痺れ非常にしんどい。ザイルを一時も手離せないまま地獄の行進を続ける。槍ヶ岳どころか北鎌平になかなか到着できず焦るばかりである。さすがに残り少ない燃料、食糧を思い不安感が何度もかすめる。しかし、ここまで来ればとにかく前進あるのみであるが「風」のコールと姿を見聞きすることはできて若干気が緩む。何と頼もしい女性三人パーティであろうか。薄暗くなってきたので北鎌平の手前であったが今日も「風」の隣にテントを張らしてもらう。バリバリに凍ったテント、シュラフに入り込んで地獄の苦しみを味わう。風雪は何故か強まるばかりである。生憎4名とも風をひいており心身ともに疲労と重なり最悪のコンデションとなり抗生物質を交替で飲みまくる。もう食糧、燃料ともに尽きており明日はどうしても肩の小屋の荷揚げ品を回収しなくてはならないと思うと全員声も出なくなる。各自声には出さないが「死」との対面を意識せざるを得ない状態であったと言っても過言ではなかったようである。

1月5日 吹雪
 連日の吹雪でもう感慨も湧かない。我々のテントサイトがもう一つはっきりしないが北鎌平のすぐ手前であることだけは確信が持てる。最後の行動食を分担し各自必死の思いで撤収する。先行する「風」のパーティに無事登り切るように声をかけると笑みを浮かべる。とにかく他パーティがすぐ傍にいるだけでも非常に心強いものである。予想通り北鎌平にはすぐに到着できた。いよいよ槍本峰の登攀だが山頂は依然姿を現してくれない。同人「風」も我々も盛んにコールを掛け合いながらピッチを上げる。一歩一歩の登行が非常に辛く緊張と恐怖で何度も足がすくみ慎重にならざるを得ない。そうこうするうちに山岳同人「風」の山頂到着の歓声を聞き、思わず我々も奮い立たされるようである。彼女らの嬉しさが身にしみてくるようである。我々も最後のワンピッチをあくまで慎重に登る。4名全員無事に山頂に立つ。我々は歓声を上げる元気もなく記念撮影も省略してしまう。ゆっくりお礼を言おうと思っていたら彼女らは先に下山を開始した。何でも今日のうちに少しでも槍沢側に下山したいとのことである。我々はしみじみと登頂成功を祝う。相変わらず視界はなしで、我々の登り切ってきた北鎌どころか肩の小屋さえその姿を現さない、どうやら長居は無用のようである。山頂からはコンテで下るが、下降が意外に難しいのに気付く。山頂直下で「風」のメンバーの一人が滑落し宙吊りになっている現場に遭遇する。空身で肩の小屋から登って来た男性1名がザイルを固定し他の2名が急いで小屋に救助隊を依頼に下降しているとのこと。あまり突然のことに愕然とする。我々の疲労度、雪の状態を考え二重遭難の危険性があるため、取り敢えず我々は下山することに決定する。ザイルは奇妙にピーンと張ってはいるものの必ず生存しているものと思われた。ふらふらの足取りにて下降しながら救助隊の安全確保のため我々のザイルもフィックス用に固定していく。すぐに完全装備とすれ違う。我々もすっかり安心しきって小屋に到着した頃は周りは薄暗くなってしまっており、今日一日の辛い行程が思い出され思わず感性を上げてしまう。
 昨秋に私が肩の小屋に荷揚げした食糧・燃料は無事回収され思わず笑みを洩らす。すっかりくつろいでいると突然、滑落したA.Mさん「死亡」との悲報が届く。小屋内に一瞬重苦しい空気が張り詰める。私は状況を無視した軽率な態度と「風」の遭難に連帯責任を感じ恥ずかしく思うと同時に絶望的なショックを感じる。全身から急激に血の気が引いていくような感じを抱く。遺体収容は小屋に居合わせた「沼田山岳会」並びに「ヒマラヤ研究会」が共同で行うために三峰山岳会、東洋大山岳部は後方でそれを支援する形となる。ところが今度は肩の小屋で合流予定の男性三人パーティの一人、同人「風」のM.Yさん、並びに救助活動中の沼田山岳会のN.Kさんが共に滑落し行方不明とのこと、ほんの2~3時間のうちに3名遭難するというハプニングに小屋内部は大混乱となる。もはや風雪中の夜間捜索は不可能となる。小屋内部では処理不可能なのは歴然となり、早速外界との行進を2台のトランシーバーを使って開始し、西穂高岳で合宿中の沼田山岳会13名に明朝よりの救助活動体制を依頼する。関係諸氏への詳細報告を簡単に済ました後、A.Mさんの遺体回収を再開する。彼女の遺体を小屋内部に引き入れる作業が終了した時点で残り2名の生存は絶望的となる。極めて絶望的となる。極めて事務的にA.Mさんの遺体はシュラフに包まれながらもまだすっかり素顔を留めている。落涙しそうになるのを必死に我慢しながら黙祷する。結果的には二重遭難が発生するような条件の中ではあったが、滑落現場で我々が救助活動をしていれば助かっていたかもしれないというような疑問が私自身の脳裏に何度も浮かんでとても堪らない気持ちになる。シュラフの中に入っても連日の疲労のためすっかりこじらせてしまった風邪も相まってなかなか寝付かれなかった。誠にショッキングな出来事としか言いようがない。朝方までほとんど寝入ることができなかったのである。

1月6日 吹雪
 重苦しい夜が前日同様吹雪とともに明け、実に1週間以上天候が安定しない。これでは勿論ヘリコプターは飛来出来る訳はないし、どうやら捜索活動も中止のようである。我々自身も兎に角無事下山せねばならないため申し訳ないと思いつつも下山開始となる。気温が低いので雪崩の恐怖は心配ないと思いつつも新雪をラッセルしながら槍沢を駆け足で下る。途中、A.Mさんの遺品であるザックを発見する。すっかり薄暗くなった頃に横尾冬季小屋到着となる。各自、疲労と風邪の具合がピークに達しているようで体調は最悪状態となるも、ここまで来れば暖かい人間社会(?)はもうすぐ傍である。外はしんしんと雪が降り続きロマンチックな上高地の雪景色であろうが、やはり肩の小屋での出来事が思い出され後ろめたい気がする。今夜も寒さと風邪でほとんど満足に寝付くことはできないようである。

1月7日 雪
 兎に角横尾まで無事に降りてくることができたことにすっかり安心したのかシュラフから身を出すのが非常に辛い。6日間も降り続いている雪のため、他パーティのトレースどころか我々の昨日の足跡すら消えてしまっている。余裕がある状態ならば冬の上高地もまた素晴らしいものに違いない。それでも私以外の3名が精力的なラッセルを繰り返すので大分救われる。今は兎に角周りの景色より「温かい温泉」の方が良いに決まっている。釜トンネルに到着した頃には私自身の疲労も極限状態になったのか最後は四つん這いに状態にて中ノ湯の玄関に倒れ込んでしまう。誠に情けないことに東京への一報は中村氏に依頼し私はコタツの中で眠り込む。こんなにバテたことが今まであったろうか。別所さんにかつて「ヘラクレス」と煽てられていたのは今や遠い過去になってしまったようである、つくづく私の体力的限界を感じ取る。それでも食事が出来上がると起き出し、全員無事を何よりも感謝しつつ祝杯のビールを流し込む。貧相なメニューにすっかり慣れきった胃があまりの刺激に痙攣を起こす。風呂に入った後、途中で痛めたらしい左指の凍傷が治っていないのに気付く。松谷君の二の舞いは御免とばかりに必死で軟膏を塗り込む。全員風邪をこじらせ咳を交替で繰り返すものの今夜ばかりは冷たいシュラフとおさらばし、これ以上の幸福はないだろう。床に入るとこの1週間の出来事が次から次へと思い出され我々の無事が不思議でならない。本当に運が良かったのだと思う。

1月8日 雪
 全身ズタズタになった身体の痛みを随所に感じながらも目を覚ます。外はまたしても雪景色、もういい加減にしてくれと言いたくなる。それでも今日は2~3時間も歩けば沢渡に到着してしまうと思うとそれほどカッカするほどのこともないであろう。雪道を下りながらさすがに冗談が飛び出してくるようだ。松本まではタクシーにて一気に向かってしまう。タクシー待ちしていると徳沢でお会いした遭難パーティ関係者約20名に出会う。まったく、槍・穂高周辺だけでもどれだけの人が死んでしまったのであろうか。またしても、我々の無事を感謝せざるを得ないようである。松本にてゆっくりと今回の思い出深い正月山行に思いを馳せる。毎回山登りの帰りは駅周辺でゆっくり時間を使う習慣にしている。松本は何度来ても信州の素朴さと都会的センスのミックスされた素敵な街であると思う。私はいつも食事・お茶をとって思いでを整理することにしているのである。それにしても今回の山行はやはり簡単に整理でき得ない山行であったのであろう。

冬山合宿 北鎌尾根から槍ヶ岳
中村 弘志

 12月30日夜、見送りの人も少なく新宿を出発する。列車は思ったより空いている。とうとう北鎌へ向けて出発してしまったのだ。頭の中は不安で一杯である。新宿発、22時30分。

 31日未明、信濃大町に着く。雨が降っている。早速タクシーで葛温泉まで入り、夜明けとともに雨の中を歩き出す。松濤明の風雪のビバークが思い出されて嫌な気分になる。もう三日も降り続いているそうだ。
 フライなしの天幕では、と言うことで湯俣より1時間ほど手前にあるトンネル内に天幕を張り、明日も雨なら帰ろうか、などと話しながら入山一日目を終えた。

 1978年1月1日、おめでとうの声で目を覚ます。やっぱり雨が降っている。遅い朝食を摂っていると何だか外が明るくなってきたようだ。気のせいでしょう。いや、やっぱり明るくなってきている。そのうちに太陽も出てきた。慌てて出発の用意をする。今日は千天の出合か尾根の取付きまでだ。何パーティーとすれ違っただろうか?どんどん下山してくる。登るのが心細くなってしまう。
 雨、晴、曇、雪、今日一日で一年分の天気を経験したようだ。意外と早く取付きに着き、心配していた恐怖の一本吊橋は下を渡ることができ、先ずは胸をなでおろす。

 1月2日、いよいよ今日から本番だ。出発していきなりの急登にさすがに参ってしまう。途中でカモシカが「ようこそ」と思ってか、それとも「バカなことをやって」と思ってか、じっとこちらを見ている。
 やっと尾根に飛び出す。尾根上はトレースがあり快適に飛ばせる。天気もまあまあだ。
 左に表銀座、右に裏銀座。「何だか見た所だな」「あっ、北鎌コルだ!!」、あまりに早く着いてしまいびっくりしてしまう。「もう着いちゃったよ」「じゃーすぐにP8だ」、「荷揚げ品が楽しみだな」「ワインとフルーツ缶目指してがんばるか」、ひと頑張りでP8に到着。早速荷揚げ品の回収にかかる。シュリンゲが出てきた。「この下だぞ」、で増々張り切って掘りまくる。ところがいくら掘っても缶が出てこない。「どうしたんだ」、そのうちにジフィーズの袋、ちくわの袋、お茶などがばらばらになって出てくる。「ああ、熊にやられたんだ」、しばし呆然。結局残っていたのがワイン、ウィスキー、フルーツ缶詰、味の素、etc、「ガッカリ」、にっくき熊め!! しかたない肩の小屋に期待するか、明日には着けるだろう。そんなことを思いつつ、3日目も暮れていった。

 1月3日、今日は独標だ。昨夜の雪でトレースがすっかり消えている。危険と感じる所は全てアンザイレンして進む。スタカットとコンテニュアスの繰り返しだ。独標の通過はトラバースルートを行くことにする。今にもずり落ちそうな雪の斜面、絶え間なく落ちてくるスノーシャワー、"ザイルあと何mだ""あと5m""ザイルいっぱい""よーしっ"!、喉が枯れるほどの大声でコールを交わす。ここを廻り込めば独標への突き上げだろう。ここを廻れば、ここを廻れば、何回目かでやっと独標の頂上に立つ。時計を見ると、何と15時を過ぎている。独標の通過だけで実に6時間以上を費やしてしまったわけだ。今日はここで幕営とする。既に1パーティが天幕を張っていた。女性が三人である。
 槍が大きく、そして厳しく聳えている。明日こそは、あそこに立てるだろう。満天の星空に明日の快晴を期待して深い眠りについた。

 1月4日、昨夜の星空が嘘のように雪が降っている。風も強い。しかし、今日は槍の頂上に立てる日だと思って張り切って出発する。ところが出発して間もなくルートを見失ってしまい右往左往していると、独標に幕営していたパーティが追いついてきてさっさと先行する。さすがに女性だけで来るだけあって大したものだ。我々も後に続く。
 独標を過ぎれば大した所はないという話だったが、それはとんでもないことだった。岩と雪のミックスした岩稜の登下降、トラバース、常に滑落の危険に晒されての進行に神経がすり減りそうだ。
 結局、今日も槍どころか北鎌平へ着くことさえ出来ずに昨日同様、女性パーティの横に天幕を張った。"ああ、何ということだ我々は北鎌を甘く見過ぎていたのだ。反省、反省。"
 風雪強く食糧も燃料も残り少なくなり、いよいよ心細くなってきた。明日は何が何でも肩の小屋に入らなくては....。
 シュラフもマットも湿り気のあったものは全て凍りついていた。"もう、天幕はいやだ、小屋で眠りたいっ!!"

 1月5日、風雪、天幕が半分近く埋まってしまっている。天幕が凍りついて畳めず苦労してやっとザックに押し込み幕場を後にする。今日も女性パーティが先行する。1時間程で北鎌平に着き、いよいよ槍の穂先への登りだ。隆君がトップで取付き、ザイルを固定してから桜井さんが登り、梅川くんと私は一緒に登って少しでも時間を短縮しようとする。そして、1978年1月5日午後3時20分、槍の山頂に立った。感激など何も湧いてこない、風が強く寒い。"早く下りたい"ただそれだけだ。握手をして早々に下山を開始する。
 その時先行の女性パーティの一人が滑落し宙吊りになってしまった。しかし、我々にはどうすることもできず、取り敢えず小屋まで下ることにする。入れ違いに沼田山岳会の方が救助に向かっていった。落ちてからそれ程の時間が経っていないのできっと助かるだろう、そう思っていたが収容された時には既に遺体だった。僅かの間に一人死亡、二人行方不明、何ということだ。山というものを考えてしまう。
 桜井さんに苦労して上げていただいた肩ノ小屋の荷揚げ品は無事だった。久し振りにジフィーズ以外の物を食べる。お汁粉、フルーツ缶、ソーセージ、鯨の缶詰、ミルク等々、非常に満足。

 1月6日、今日は下山の日だ。相変わらず風は強いが思い切って出発することにし、小屋の前に安置されている遺体に手を合わせて歩き出す。急斜面と風にあおられながら一歩一歩慎重に下るうち、殺生小屋の下で遭難者のザックを発見する。
 クラストした斜面がやがて軟雪に変わり雪崩の恐怖を感じる。"ここで一発出たら終わりだな"そんな考えが浮かんでしかたない。どうにか安全な所まで下ったと思ったら今度はラッセルである。ワカンの紐が凍りつきうまく締まらない。固定バンドにすれば良かったとつくづく思う。膝から腰の時には胸までのラッセルにほとほと参ってしまう。"あーあ、横尾はまだかなー"
 16時40分、横尾着、しばらく放心状態。
 桜井さんがストーブに火を点けるが煙ばかりで涙が出てしかたない。それにしてもお腹が空いた。ジフィーズを2杯食べて自分でもびっくり。皆に慣らされた感じだなー。その後もお好み焼き、カレースープ、蜂蜜と立て続けに胃の中に押し込む。満腹したせいか久し振りにぐっすりと眠ることができた。

 1月7日、目が覚めると隆君と梅川君は既に朝食の用意をしている。さすがに若さだ。私はのこのことシュラフから這い出していく、今日も雪が降っている。昨日あったトレースもすっかり消えている、またラッセルかと思うとうんざりして溜息が出る。あーあ、でも中の湯まで行けば温泉に入れると思えば何のそのである。途中、徳沢小屋に寄り横尾尾根の遭難を知る。3時少し前、上高地に着く。あれ程憧れていた冬の上高地ではあったが、いざ来てみると少しも良くない。横尾周辺の方がよっぽどいい。"さあ、あとひと頑張りだ"暗くなる頃やっと中の湯に到着。終わった....!! 長く辛い山行がやっと終わったのだ。疲れたなあー。これからはのんびりとした山にしよう。前にも同じようなことを書いたかな?

〈コースタイム〉
12月31日 葛温泉(6:20) → 東沢(9:55~10:30) → トンネル(11:30)
1月1日 トンネル(11:30) → 湯俣(12:50~13:20) → 千天出合(15:20) → 取付き(15:40)
1月2日 取付き(7:25) → 尾根上(8:35~50) → 北鎌のコル(11:55) → P8天狗の腰掛(13:15)
1月3日 天狗の腰掛(8:15) → 独標(15:20)
1月4日 独標(7:45) → 幕場(16:5)
1月5日 幕場(9:55) → 槍ヶ岳(15:20~25) → 肩ノ小屋(16:40)
1月6日 肩ノ小屋(9:20) → 一ノ俣(15:5~15) → 横尾(16:40)
1月7日 横尾(9:50) → 徳沢(11:45~12:10) → 上高地(14:45~55) → 中ノ湯(17:50)

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