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春山合宿その2 巻機山隊
川田 昭一

山行日 1978年4月29日~5月2日
メンバー (L)播磨、川田

 大分大風呂敷がかった話ではあるが、坂東太郎の流れは関東八州の田畑をくまなく潤していたと言われている。「そんな馬鹿な!!なんで相模の国の田畑まで利根の水が流れていたかって、ちゃんと相模の国には多摩川や桂川が流れていたじゃないか」と、やり込められるのが落ちである。しかし、今日のように地図、道路網が整備されていなかった頃のこと、事実が曲げられて伝えられたことは確かなようだ。今ではあたり前のこととして通っているが、利根川は群馬と新潟の県境、三国山脈北部の大水上山に源を発し銚子市に出て太平洋に注ぐ。流域は群馬、栃木、埼玉、茨城、千葉の5県に跨り長さ323kmに及ぶ大河である。事も知れたものも大正15年8月の第2回利根水脈探検隊によるものである。前置きが大分長くなったが、昭和53年4月、三峰の春山集中登山の話題に入ります。集中コースは利根川源流の山並み、巻機山から兎岳への縦走と尾瀬、平ガ岳から兎岳、また中ノ岳から兎岳への3隊に分かれ、ちょうど利根川源流、大水上山の平らなピークを前と後、それに横からと攻めるような形で行われた。我々(播磨、川田)のパーティは巻機山、兎岳のコースを選んで29日に入山した。
 第1日(29日)、六日町よりバスで清水部落へ入る。この頃より小雨が降り出し、小雨の中を登り始める。なんせ巻機山入山回数4回目だという播磨さんのガイドぶり大いに発揮、雨風混じりのガスの中をついて迷わず避難小屋へ、小屋の中にテントを張って本日の行動は終了(午前11時30分)。
 第2日目(30日)、巻機山の避難小屋より昨日と同様横殴りの雨風が叩きつける中を五十沢山、タマタ山、小沢山、下津川山と続く山並みを行く。濃いガスがルートを塞ぎ特に小沢岳の下りではルート探しに苦労した。下津川の急な下りを降り切ると下津川山の肩、平らな場所を幕場とした。
 第3日目(5月1日)、今日の予定は幕場より本谷山、越後沢山、丹後山、大水上山を越えて兎岳までと組んだ。荒れに荒れた天候も入山後、3日目になってようやく快晴となり気持ちのいらいらも一変しやる気十分、しかし、悲しいかなファイトも長続きはしない。歳のせいであろう?えらく足が重く肩に荷が食い込む。特に本谷山手前の痩せた稜線の通過には緊張し疲れた。昨日のように大風が吹いている時の通過は更に困難であろうと思う。丹後山に近づくにつれ稜線はサッカー場のように広くなり気持ちの良い所にと変わる。兎隊の書き残した荷札を播磨さんが探し出す。荷札は次の大水上山で、尾瀬に分かれるジャンクションピークで、また兎岳と続いていた。冷えたビールが一日早く飲め、汚れた都会の空気が一日早く肺の中に吸い込まれ、父親の帰りを待っている騒がしい子供のところへ一日早く下って行った兎隊の皆様、我々は一日余計山に居て皆様の分まで山の雰囲気を食い尽くすことにします。幕営地は小兎岳のピーク、オオシラビソの林の中とした。
 第4日目(5月2日)、昨日の夕方から降り出した雨が時折降っている。また心暗い出発だ。しばらくの下りで最低コルに着く。巻機山よりずうっと一緒だった某山岳会の人達のテントに寄り我々が予定通り十字峡へ下ることを告げ、中ノ岳より下る。中ノ岳ピークで一時払われたガスも十字峡に下り着く頃は土砂降りの雨となった。

〈コースタイム〉
4月29日 清水 →(5時間)→ 巻機避難小屋
4月30日 避難小屋 →(40分)→ 五十沢山 →(1時間20分)→ タマタ山 →(2時間40分)→ 小沢岳 →(3時間10分)→ 下津川山 →(45分)→ 幕営地
5月1日 幕営地 →(1時間15分)→ 越後沢山 →(1時間)→ 丹後山 →(2時間10分)→ 大水上山 →(45分)→ 兎岳 →(45分)→ 小兎岳幕営地
5月2日 幕営地 →(2時間)→ 中ノ岳=大天正山 →(30分)→ 小天正山 →(2時間)→ 十字峡 →(1時間30分)→ 野中バス停

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