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五月の岩魚釣り
江村 真一

山行日 1978年5月27日~31日
メンバー (L)川田、江村(真)

 何か新しい物事への興味や関心は機会に恵まれ初めて実を結ぶものである。山行と釣りを両立できたらと何年も前から考え過ごしていた。岩魚釣りもすると聞いていた川田さんに一度一緒に行きたいと話していたところ、できれば5月下旬に「早出川の上流へ行ってみたい」とのことで、早速同行させてもらうことにした。
 僕にとって初めてのこと、先ずどのような用具が必要なのか念入りに教えてもらい釣具店へ。先調子の竿、ハリ、餌入れ等、最低必要な道具を揃えていると、ベテランらしい釣り師が僕の顔をじろじろ見ながら「何を釣りにいくの」と聞く、「岩魚」と応えると「岩魚を釣りに?何処に行くのか知らないけれど釣れっこないよ!」と一言。そんなに釣れないものなのかと認識を新たのすると同時にそれなら何とか一匹でもいいから釣ってみようと意欲が増してきた。
 入山は室谷とのこと、そう言われても一向にぴんとこない地名で、早出川も判らず地図を見ると何と室谷は室谷川最奥の部落であり、早出川へは900m近い山越えをして入ることになるのだ。これから想像して相当に悪場であろうことが脳裏をかすめた。汽車、バスの乗り継ぎでは入下山に日数を要するので車で行こうとのこと。

5月27日
 夜の国道49号線は会津若松を過ぎる頃から寂しいほど空いていた。福島から新潟県への標識を見て真っ暗闇の中を車は走る。「確かここだ」と言う川田さんの声、大きな橋の手前を左へ、しばらくしてバス停の室谷であった。正確である、明け方まで室谷洞窟の近くで仮眠する。

5月28日
 清々しい5月晴れである。周囲は綺麗な野原が広々と続く気持ちの良い場所であった。5月末とは言え、山は春を迎えたばかり、木々は新芽を出し始め、蕨が顔を出している。鳥は鳴き、風は爽やかだ。
 6時30分出発、室谷沢に沿ってはっきりした踏み跡を進む。沢が北へ向きを変える頃から沢を離れ、目標を大戸沢山(874m)のピークに置く。いよいよ径のない藪の急登が延々と続くようになる。手の届く所にウドやゼンマイがいくらでもある。目的は岩魚、目もくれず黙々と登る。藪の中で見通しはかなり悪いが背後の室谷沢上流の雪渓が良い目印になり助かる。
 尾根に近づくにつれ腐った残雪や蔓がはびこり行く手を遮る。尾根は思ったより広く平らな地形であった。ここで方向を来た変え、大きな池で昼食を摂りながら大休止。残雪の下から木々や熊笹が頭を持ち上げ、時々その音に驚かされる。春霞のためか周囲の山は何となくぼんやりと映っている。
 類似地形の嫌な所である。川田さんの頭の中には降り始める無名沢の源頭が正確に刻み込まれていたのか、小さな小さな溝を探し出し降り始める。それほど危険な所もなく楽しい沢である。水量も多くなりブナの大木が目立つようになった。今早出沢対岸にあるヤジロウの頭の大岩壁が木の間にはっきり見えるようになり、ひょっこり何やら平らな所に着く。ブナの木に立教大学と彫ってあった。いよいよ今早出沢の河岸段丘であろうか、この辺り踏み跡がはっきりとし今日の幕場である今出の方向へと続いている。まだ12時30分、地図を見れば左岸は岩壁の連続であるが、これから行こうとしている右岸は全く岩の印がない、今日の行程の峠は越したおそらく今出には2時頃には着くだろうと川田さんと話し合う。気分的に楽になり先を急ぐことにする。段丘上の平地をしばらく行くと、踏み跡は今早出の本流へと下っている。流れをじっと見ながら魚影を探してみたが分からない。その後幾つかの小さな岩場を高捲きをしながらもほぼ水平に行く。間もなく前進不能の垂直に落ちている岩場に出くわす。思い切って大高捲きと決め、繁った藪の急登に移る。
 こうしているうちに身体の変調に気がついた。腕、足、腰に力が入らないのである。ガソリのなくなった車と大差なく、どうやって動かそうかと考えるほどだ。想像していなかったことが起こった。いや、急に何かに襲われたようだ。完全にエネルギー源がなくなったのだ。考えてみればここ数日のアルコール漬けと特に昨日の夕食がいけなかった。車で川田さん宅に向かう途中、うどんを一杯食べただけだ、後今朝のおにぎり、これではとても無理だ。こうなってからでは後の祭り。先程までの順調な歩みに対し、この状態は何たることだ。10歩進んで一休み、5歩進んでまた休み、完全に精根尽きた感じだ。川田さんはちょっと先でいつまでも待っていてくれる。見れば40~50m上方にスラブ状の所があり、その中段が道になっているようだ。とにかくあの中段まで行こう。そうすれば、ほぼ水平な道になるに違いないと自分に言い聞かせ言い聞かせ、何とかそこまで頑張る。見通しが良くなり前方に尾根が張り出し数本の松の木がある。その間に沢が入っているとはいえほぼ水平に道が続いているのが分かった。藪の急登と水平道のエネルギー消費量の違いをつくづく感じさせられた。気をつけながらスラブを通過し、枝沢を越し良い目印になった松の木の所まで辿り着いた。樹木の陰になって見えないが目指す今出は確かにこの辺である。一休みしているうちに偵察に行っていた川田さんが分かった分かったと安心して戻ってきた。小さなガレ場を20mほど下り、少し藪漕ぎをした時、今早出沢と割岩沢の合流点、今出が眼下に広がった。頭上には五剣谷岳のゴツゴツしたピークが覆いかぶさるように見えている。今日の前半の順調さとその後の不調を考えると、この時の嬉しかったこと嬉しかったこと。一気に河原まで下降し、15mほどもあろうか今早出沢を渡渉し対岸の小高い幕場へ。時刻は何と5時10分であった。
 テントを張り焚き火をし、気持ちの落ち着きを取り戻すと静寂の中に自分達の姿があるのに気がついた。夕闇迫る中、流れの音だけが力強く耳に入ってきた。

5月29日
 ぐっすり寝た。6時ちょっと前に目が覚める、天気は良い。川霧が水面を薄く覆っている。ここ今出の標高はわずか375mだというのにどうして深山幽谷を感じさせるのか不思議だ。
 早々に朝食を摂り、いよいよ釣り仕度、地下足袋を履き、竿、びく、食料などをサブに入れ7時出発。
 小割岩沢へ向かう。足取りは軽い。すぐに割岩沢を渡渉し大高捲きをしながら出合へ、この時見えた小割岩沢は出合から数百mの間だけ流れがありその上流は雪渓に埋まっているようであった。
 水はあまり澄んでいない。いよいよ竿に仕掛けをする。緊張する一瞬である。出合付近は暗くゴロが多く足場はかなり悪い。しかし、棲み家になる淀みは数知れずある。岩魚は不自然な物音への警戒心が強く聴覚は10mにも及ぶそうで、足音を立てないようまた見られないように注意深く糸を垂れる。
 しばらく頑張るが釣れない。釣具店での言葉が頭に浮かぶ、「釣れっこない」のかなと思ったりする。まだまだ釣り始めたばかり、何これからだと気合を入れる。少しずつ遡行しながら釣っていく。沢は明るく瀬になり一部残雪が現れた。川田さん「その流れの角を何回か流してみては」との言葉に、こんな浅い所にもいるのかと思いつつ流してみた。2度目にぐっと糸から竿に力が加わってきた。一瞬の出来事だ、さてはと思いながらも慌てずに竿を上げる。魚が糸の先にぶら下がっている。「釣った、釣った」遂に僕は岩魚を釣った。斑紋はあるが色が思っていたように美しくない。「確かに岩魚だ、春先でまだ色が鮮やかになっていない」と川田さん。それからすぐ上の滝壺で2匹。そのうちの1匹の手応えの素晴らしかったこと、一気に竿があがらない僕が魚に振り回されている感じだ。30cm以上の大物であった。昼食後は尚も上流へ進む。雪渓の末端まで来てしまった。出合から400m来たかどうか、これから上は流れが出ていそうになく同じ所を釣りながら下る。手応えはない、しかしまた釣れると期待で一生懸命である。出合まで戻り更に割岩沢を遡る。いかにもいそうな所は多い。漁獲量二人で7匹。
 3時近くになったので残念ながら今出へ引き返すことにする。沢をできるだけ忠実に下降する。左岸をヘツリながら尾根の末端を通過したが遂に通らずに出くわし大高捲き。その後3回ほど渡渉をして今出へ、意気揚々の帰着である、3時20分。
 釣った魚を河原で料理し焚き火で焼いて肴にしての酒宴。大自然の真ん中でこれほどの贅沢があるであろうか、この場面を夢見て今回の山行であった。それが現実となって繰り広げられているのだ。
 自然の冷気の中で充分食べて飲んでいつの間にかいい気持ちになって寝てしまった。
 雨の音で夜半目が覚める。またすぐに寝込む。

5月30日
 しとしと雨が降っている。釣りはまだまだやりたい。しかし、増水時の渡渉が気になり今出を引き上げることにする。雨の中の撤収は嫌なものだ。7時出発、すぐに今早出沢を渡渉。今日の目的地を河岸段丘上と決める。天候次第で午後と明日の朝、釣れるだろうと考えた。小雨の中、しかもコースの大半は背丈より高い藪漕ぎだ。先は思いやられるが元気である。帰りはハイペース、迷うことなく進んだ。風立沢を通過ししばらく歩き、既に段丘へ登る小さな尾根まで来ていたのに僕はここで錯覚していたことに気がついた。まだまだ段丘下ではないと思い込み沢筋への踏み跡を探していた。これをはっきり気づかせてくれたのは、往きに川田さんが目印に折った小枝が方向を示してくれていた。
 テント場、10時30分着、すぐに天幕を張る。特にすることもないので雨の中焚き火が始まる。焚き火好きの二人、この時から延々夕方の6時まで燃やし続けたのである。さて雨の中で8時間にも及ぶ焚き火、何をどうやって燃やしたのであろうか。夕食を摂り8時寝袋に入る。
 物音に目が覚める、川田さんがずぶ濡れになって寒さに震えローソクにあたっているのだ。時計は10時であった、見るとテント内に侵入した水がウレタンマットの上まで来ているのだ、僕はエアーマットの厚みのお陰でかろうじて助かっているのだ。確かに寒い、これは濡れたからではなく異常な寒さだ。太いローソクに芯を二つ作り炎を大きくして暖をとる。うとうとと寝込んでしまったらしい。寒さに震え目が覚めた。僕もエアーマットから落ちてしまいびしょびしょだ。午前2時、座ったまま明るくなるのを待つ、この長ったこと長かったこと。

5月31日
 5時40分、まだ小雨の降り続いている中、早々に出発。
 朝の釣りどころではなく退散である。無名沢を一気に駆け登り広いブナと藪の尾根に出る、時刻は7時20分。雨と沢の水で身体はびしょびしょ、動いている方が暖かい。下降点へ着くか着かないうちに適当な雪の斜面を見つけ駆け下りた。やがて藪の中に入ると川田さんのスピードは増々冴える。速いこと速いこと、瞬く間に姿が見えなくなる。コールを何度繰り返したことか。
 踏み跡のある室谷沢沿いに出た頃には春の青空が広がっていた。9時50分、室谷着、着替えをして蕨を採る。
 瞬く間に過ぎたこの5日間、これこそ本物の山旅ができたと感慨が溢れる。
 帰りのカーラジオは昨日より急に西高東低の気圧配置になり尾瀬、上越で10cm前後の降雪があったと報じていた。


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