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秩父大縦走
宮坂 和秀

 この行程、6泊7日の山旅に同行したのは長久君ではなかったかと本人に照会してみましたが違うと言う。してみると高木真次郎君か、森瀬茂君かのいずれかだったに相違ない。
 何分にも今から半世紀近くも前のことで記憶も定かでなく、間違っていたらご容赦を願いたい。
 友と二人、秩父を縦走しようではないかという訳で身支度を整えて東京を出発した。立川で青梅線に乗り換える。確かその頃は青梅鉄道と呼ばれる私鉄だったようだ、その終点の御岳駅からバスに乗ったように思う。
 氷川町(今の奥多摩町氷川)から日原への道に入って歩き出した。何しろ1週間分の食糧と寝具等を背負って歩くのであるから牛の歩みであったろう。トップリと暮れ落ちた時間だから夏とは言え7時半も回っていただろうか。川苔谷のゴウゴウいう沢音を不気味に聞いて、また歩き出す。当時は懐電を持参したのかローソクを使うカンテラだったのかちょっと記憶にないが、この時は現在のように舗装してないしバスもなかったので足元は極めて怪しかったが、それでも星明りで何となく照明なしで歩くことができた。
 倉沢も過ぎて日原も近くの急坂の途中で腰を下ろして一服やっていると、地元の人らしいのが追いついてきて休憩に加わった。我々を若者とみて、「学生さん、今夜は◯◯屋へ泊まるのかね」と尋ねた。「いいえ、何処へ泊まるという当てはないのです」と答えると、「◯◯屋へ泊まっちゃ高くてもったいないから、わしの家へ泊まったらどうか」と勧めてくれた。渡りに舟と泊めていただくことにした。
 日原部落へやっと到着した。現在ならばバスで1時間も乗れば楽に着くことができる道程である。おじさんの家は道からやや左へ下った所にあった。山仕事と農業を生業とするようであった。このおじさんの話を聞くと子供が東京にいるので、そこへ訪ねていっての帰りだという。身内が東京にいるので懐かしいのだろう。昔はこのように親切な人が沢山いたものだ。
 この家のトイレ、いやトイレという代物ではない、屋外にある便所である。夜間使用する時、横に荒縄が張ってあったが、一体何に使うのかと思った。朝になってよく見ると、用便後の紙の代わりに使用するものであることが判った。つまり大キジを打った後、この縄を跨いで擦り付けた上、前にあるハンドルを回して然るべく進ませる仕掛けにしてある訳である。尚、一巻終了した時、ナニが付着したこの縄の処分については聞き漏らしてしまった。
 余談はさておいて、前途は長いのだ。出発することにしよう。日原川本流と小川谷との合流点で割合と良い路が小川谷の方に入っていた。これは日原の鍾乳洞に行く路である。ここは八丁橋とかオロセ橋とかいう橋が架かっていて、この付近が天祖山神社参拝の「御旅所(おたびじょ)」という所らしい。現在では本流沿いに孫惣谷の出合辺りまで車の入れる道が入っている筈だが、その当時はこの道はなかった。記憶は怪しいが、確か本流と小川谷との間の尾根(タワ尾根)に取り付いて高みを捲いて行くようであった。孫惣谷を渡る所が「セッチン橋」ハタゴヤ坂などという急坂があって道は相変わらず高みを捲いて行く、日原川の本流は相当な悪場であるらしい。長沢谷を渡って白岩山から伸びている尾根をぐるっと回ると本流のほとりに降り立つことができた。
 細い径はなおも上流へと続いていたが川を対岸に渡って権衛谷と小雲取谷との中間尾根に登って行く径があるので、これが権衛尾根であろうと断定を下して登り始める。相当な急登である。1,800m付近まで登ると後はずっと楽になった。
 気を良くして登って行くと小雲取で縦走路に出、雲取山へは一投足だった。山頂から西へ下った鞍部(三条ダルミ)に無人の甲州雲取小屋があって、これが2泊目の宿である。甲州の山小屋というのは殆どが、中央が土間で自在を吊り下げて煮炊きができるようになっており、土間の両側は板張りの床になっている。現在ではこの小屋は取り壊されて多分なくなっているだろうと思う。
 武州雲取小屋(雲取山荘)からの山頂を登らずに捲いた径がきており、甲州側へは三条の湯へと下だっている。ここからは雁坂までの尾根筋全部が多摩川上流の水源地帯となるため、監視路としてあまり高低差のない捲き径となっている。楽な代わりに道中が長いのが欠点だ。
 唐松尾山を捲く辺りからゴロゴロ、ピカピカとやり始めて遂に夕立となってしまった。我々の先行者が1名いたが、この男は雨が降り始めるや否やコーモリ傘をさして歩いていくのには驚いた。あまり接近すると落雷した時危ないぞと思った。
笠取小屋へ雨宿りに飛び込むと山行者も着いていた。雨が止んだら釣橋小屋まで下ると言っていた。我々は雁坂峠まではちょっと無理なのでここに泊まることにしたが、その当時無人で相当ぼろっちい小屋であった。床板を剥がして燃料にしたらしい形跡があり、隙間だらけの小屋で寒い一夜を過ごした。
 翌日は雁峠から雁坂峠も過ぎて、2,317mの破風山に立つ。この頃からまたまた雷雨となり雨具を装備しての木賊山の大登りは楽じゃない。後下れば甲武信小屋である。小屋番もいるし暖かい寝床が待っているだろうと楽しみにしつつ小屋に着くと、どうしてどうして林業関係の人夫で満員であった。
 まだ3時過ぎだから国師の大ダル小屋まで行けるだろうと、たかをくくって雨の中を勇ましく甲武信岳へと登った。幸い雨も止んだし、あまり高低も甚だしくなく黄連尾根の下に着いた。これから国師岳への大登りが始まる訳である。
 国師ヶ岳の頂上、2,592mの三角点に到着した。既に日は西に落ちて8時ともなると灯りなしでは歩けなかった。やっと登り着いて大ダル小屋も間近だという心の緩みと若者の未熟さも手伝って山頂から北西への比較的良い道を下だっていた。変だ変だと思いながら下るほどに水流が現れてきたのでビバークを決意した(約100mは下だったろうか?)。
 尾根道で急降しても水流が現れる筈がない、とは鉄則である。もっと早く気が付かなければいけなかったのだろう。その夜は着られる物を全部着て、天幕地で作った寝袋の中に納まり頭の上で紐を締めて寝たが本当に寒かった。とんだ4晩目の一夜だった。
 翌朝は朝食を炊くつもりで鋸と鉈を使って白樺の生木を切り倒して薪を作ってみたがものの、何としても燃えない。遂に諦めてといだ米をぶら下げて国師へと登り返した。大ダル小屋(無人)で飯にありついて出発したのは昼も過ぎてしまった。
 秩父の最高峰である金峰山(2,595m)に着いた頃、近くで雷が鳴ったので、また夕立にやられるぞと心配したが降るまでにはいかなかった。稚子の吹上も過ぎ、大日岩手前で道を誤って右の砂払沢へ下りかけてしまった。昨日のこともあることだし早目に引き返したが時既に遅く、やっと発見した下り道の分岐点で再びビバークする羽目になった。国師でビバークしているためその出発が遅くなり、大日岩に到着した時は夕暮れとなってしまい、併せて金峰山から下ってきては大日岩がはっきりしないので、それが確認できない限りその左側を捲いて下る道を求めようがないのである(当時の指導標の不備のせいにしてはならない、未熟だったのだから)。
 パラパラと雨が降ってきたので寝袋の下に敷く筈だったシーツを雨避けにしたが小雨で済んだのは幸いだった。ビバークも2晩目となると落ち着きも出てきて寒いけれど気は楽なものだ。
 翌日は大日小屋(約2,000m)まで下ってまたまた朝食兼昼の食事になった。富士見平から金山を経て増冨のラジウム鉱泉へ1泊して帰京した訳であるが、この間に富士見平から瑞牆山へ往復したような記憶がある。
 日原から入山し秩父の主脈を縦走し韮崎駅へ出るまでの7日間、その計画した行程に従って曲がりなりにも完走できたことは誇りに思っている。


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