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丹沢・同角沢 遭難救助失敗の思い出
野口 孝司

 古い話で記憶が定かでないが昭和17年晩秋の候、連休を利用して三峰の友人で今は亡き木口老と音信不通の村瀬氏の3人で丹沢中津川支流の水棚沢を稼ぎユーシンで1泊、2日目はザンザ洞に入ることに決まり、第1日目は私と木口老人で渋沢から中山峠を越えて宇津茂、稲郷を経て水棚沢を遡行し、雨山峠に出て仕事の都合で帰る木口老人と別れて私一人ユーシン山の家に行きました。
 当時の出で立ちは、破れたズボンに手製の脚絆、出合までは女物の履き古した下駄履きで、途中または出合付近で捨ててある草鞋を拾って利用したものです。
 水棚沢はあまり興味ある沢ではないが唯一の大滝20mでは、トップを切って直登したのはいいが今一歩という所でホールドがなくなり泣きを入れた思い出があります。また当時の檜岳山稜は道は全くなく雨山峠まで藪漕ぎを強いられました。また当時のユーシン山の家は真ん中に囲炉裏があって薪を一束20銭くらいで買って食事の支度をしたものでした。
 さて小屋で待つことしばし、午前中の仕事を終わって長駆駆けつけてきた村瀬氏と合流する。当日は案外の晴天であったが、秋の日が沈む頃になると雨が降り出し雨足が次第に激しくなっていく(当時は戦時中のため天気予報は報道されなかった)。夕食をしながら明日のザンザ洞の話になり、この雨が降り続けば中止して帰路は玄倉に出るか雨山峠を越えるかの相談中、山小屋の息子さんが土砂降りの中を来室して、少し前に2人組の登山者が同角沢を下降中、不動ノ滝下で1人の青年が怪我をしているので助けやって欲しい、私達2人ではどうにもならなかったと連絡があったのでこれから救助に向かいたい。各パーティから1人出して欲しいとの話であった。私は村瀬氏に頼まれたのですぐ支度にかかった。
 総勢6人、30mザイル1本、ランタン1個、懐中電灯1個で暗夜の雨中を出発する(現在は同角沢出合まで行くのは玄倉への車道を進んで、対岸から下って玄倉川を渡ればよいが、当時は3回ほど渡渉しないと出合まで行けなかった)。
 第1回目の渡渉地点で息子さんがザイルを縛って渡り始めたが激流が膝上どころか腿までくる始末で全員の渡渉は困難と判断し迂回することに決定。引き返して桧洞本流を渡り大石山の尾根に取り付き同角沢の支流の大杉沢を目指して下降を始めた。
 雨のため懐中電灯はショートして使用できず、ランタンのローソクも風のためしばしば消えてしまい心細い限り、素草鞋の足は藪漕ぎのため所々血が滲んでいる。全員1個のランタンの灯りを頼りに雨中を黙々と下降するがなかなかはかどらない。幾時かの後、やっと同角沢出合にかかる大滝30mの上まで達した。この滝を下降すれば不動ノ滝まで近いので先ず小休止。この間全員で暗闇をつんざくような大声で呼びかけるが滝の音に消されて応答なし。
 さてこの大滝を下ることになりザイルを降ろしたが下まで届かないらしいという。その上、全員が大杉沢は未知の沢であり暗夜の雨中でランタン1個の灯りでは盲も同様の状態、その上ずぶ濡れで長時間の苦闘で疲労もしている。相談の結果、二重遭難は絶対に避けねばならない、我々も努力してここまで来たのだから救助はできなかったが仕方ないだろうと息子さんの意見もあり引き返すことに決定した。小屋に着いたのは12時も過ぎていた、約6時間あまりの活動であったが何か割り切れないものが心の隅に残っていた。
 昨夜の疲れで目が覚めたのが7時近く、天気は上々とまでいかないが薄日が差している。急いで朝食を済ませてザンザ洞遡行の支度をしていると村瀬氏が昨夜のこともあるし今日は行きたくないと言う、では私1人で偵察に行ってくるから待っているように頼んで、ザンザ洞F4の上部にあるナメまで行って引き返してきた。
 帰りに息子さんに会い様子を聞いたところ、不動ノ滝下降の際、捲き道が判らず藤蔓のようなものに掴まって降りる途中落下して腰を打ってしまいショックと重なってうづくまっていたとのことで、明るくなってから自力で下降してきた由でした。私も安心して帰路についた。帰りはいつもの雨山峠越えでした。


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