トップページ > 岩つばめ一覧 > 岩つばめ240号目次

菜畑山~今倉山~二十六夜山
相沢 真知子

山行日 1980年3月29日~30日
メンバー (L)鈴木(一)、相沢

 菜畑山の登山口にある宿屋。石段を登って玄関を開ける。任侠映画に出てくる旅館のようでもあるし、「松の湯」のようでもある。過ぎ去った年月を大事に折りたたんでとってあるような、そんな風情。太い柱や廊下がよく磨かれて黒光りしている。二階の突き当りの部屋に通される。降り始めた雨とすぐ下を流れる川の音が賑やかだ。
 夕食は玄関正面の一角に囲炉裏を切った座敷で皆さんで一緒にいただく。泊り客は子供連れの家族が数組、東南アジアからの方も加わったグループ。登山客は私達の他に男性の二人連れ、明日は菜畑山から朝日山に抜ける予定とか。それにしても空が心配される。
 床の間に鎧が二揃い。猪の子供の剥製。猪は玄関脇にも大きいのが逆さ吊りされていた。反対側の煤けた鴨居には大小の魚拓がずらりと並んでいる。
 献立が凄い。貝がたっぷりの鍋、じゃがいも、ハス、ゼンマイの煮しめ、分葱のぬた、こんにゃくに柚子味噌(最高)、ふきのとうの酢の物。空っぽのお皿にのるべき山女魚はまだ囲炉裏にあたっている。お酒がね、いいのです。50センチくらいの青竹のお銚子に同じく青竹の尖ったのやころころした不揃いのオチョコ。その名も青竹酒。鈴木さんとニンマリしながら舌鼓を打つ。メニューには出ていないけれど楽しいお喋りもご馳走だった。最後におうどんと丼にどっさりの沢庵でご飯をいただいてもう満腹!美人の女将さんに朝6時に発ちたい旨述べおにぎりをお願いする。それにしてもこんなでいいのだろうか。仕事はこれからなのだ。雨が沢山に降って、朝には上がってくれればいいのだけれど。
 朝、6時15分発。雨が上がり曇っているけれど空気がひんやりいい気持ち。宿を出て5分程で沢沿いの道に入る。朝靄の中に鳥の声。たっぷり雨を吸い込んで落ち葉の道がもこもこしている。
 これはどうしたことか10分と歩かぬうちにもう喘ぎだす。酸素の吸入が追いつかない。昨夜は雨音が耳についてよく眠られなかった。まだ身体が目覚めていない等々、あれこれ弁解を考えている。少し歩いては休みを求める。嬉しくも今回はゆっくり行こうと決めてあった。今日ばかりは走り回らなくて済む、周りの景色を愛でながらのんびりと楽しもう。何しろこの私がトップなのだ。それにしても何たる体たらく。これでは楽しむどころではない。
 林道に出る。えぐられた崖にふきのとう。鶯の声も聞こえる。呼吸が次第に楽になる。再び熊笹の道に入る。「山は下る時が一番いい」「もう終わりかと思うと下りは淋しい」このあたりの意識の違いが足に出るのだろう。リーダーの言葉には同感。尾根を歩きつつ雑木越しに周りの山々の名を教えていただく、幾重にもなる道志山塊を取り囲むように丹沢、奥多摩、そしてアルプスの山々。胸元まで雲で隠して富士が圧倒する近さに迫る。1時間半程で菜畑の頂上に着く。伊予柑を食べて写真を撮る。
 目指す今倉山が幾つかのピークを従えて聳えている。北側は伐採されていて展望が良い。いつの間にか富士がすっかり顔を出し、長い脚線美を晒している。あの足で人を引き寄せ、何人も呑み込んで返さないのか。こう見ているとやっぱり勝てない気がする。近づこうとは思わないけれど。上空で風が騒がしい。天気のことなど色々とうかがう。
 今倉山へは2時間程で到着。菜畑から3時間と聞いていたのでびっくり仰天。雑木に囲まれて視界は良くないけれどなかなか良い雰囲気のピークだ。倒木に腰掛けてきゅうりを噛る。それにつけても昨夜の柚子味噌は美味だったなあ。
 二十六夜山へ向かう。この尾根歩きはまた行きたい。時には道とも呼べないなだらかな斜面をのんびりと登る。天気良し。展望良好。気分良し。昼寝をしたいと申し出るが受け付けられず。
 ピークで昼食。12時20分。食欲がない。アンドーナツをいただいて紅茶を飲む。天気や地図の読み方を教えていただく。鈴木さんは前夜、妹さんのベットに付き添いながら2時頃までコースを吟味しておられたとか。「山を知れば知る程、謙虚な姿勢になるはず」と仰る。昨夜の話でせめて二流のリーダーになりたい、などと言ったのは取り消し。不遜な言い方だ。ベストを目指さないならば、何にも始めない方がいい。全てでないなら何もいらない。例え中途でそれたとしても今この時は....。
 遠く南アルプスの真っ白なピークを眺めながら下る。何かわからないけれど大小の足跡が雪の上に続いている。リスのような姿が前方をちょろっと横切って消えた。リスやうさぎなら歓迎だけれど熊、はたまた猪だったらどうしよう。リーダーと対策をあれこれ練る。私は目でハッシと勝負!負けたら....食われてやるわい。リーダーの案はちょっと苦しそう。第一こっちが先にまいってしまう、中毒で。冗談はともかく現実に出くわしたら....こんな具合になるようだ。
 登りに差し掛かった時、突然右上のヤブでガサガサ音がする。途端に物凄い地響き。顔引きつらせて後ろを振り向きざま「わっ、何!」と駆け出す(本当は何と言ったか覚えていない)。何と我がリーダーは呑気にメモなんぞ取っておられる。さすがですな。頼もしい限り。ところが、私の顔を見てギクリ。キョロキョロするやいなや一緒に駆け出すではないですか。何ということはない、私の形相を見て気付いた様子。「どうしたらいいんですか!」「逃げるしかないよ!」やはり、自分の身体は自分で守るしかないようだ。
 足音は音声多重の大迫力であっという間に下って行った。ホッ。「猪だな」”猪突猛進”とはそのものズバリ、言い得た言葉なんだなあと実感する。あんなのに体当りされたらひとたまりもない。煮るなり焼くなりどうにでもしてくれ、さあ殺せ。リーダーのお言葉、「猪は引きつけておいてかわせばいい”ちょっと待て、猪は急には曲がれない”」そうですか。今度、是非見せていただきましょう。
 所々雪混じりの道から林の中に。30センチぐらいの雪が踏まれていないまま続いている。先導者がいた。猪の子供かしらん。小さな丸い足跡。稜線を左にそれて急な道を下る。落葉と腐った木で覆われてあるき辛いことこの上ない。腰が抜けそう。車道に出るのに1時間程と聞く。
 鈴木さんが下方を見に行き引き返そうと言われた時、気が遠くなる。落葉が深い上に雨で土が緩み、ずるずるとずり落ちてしまう。手がかりをやっと掴めば根から腐っている。軍手で土を掴み這い上がるが足を一歩持ち上げるのに途方もなく時間がかかる。見上げると鈴木さんの姿はなく声だけが聞こえる。「さっきの尾根までだ、頑張れ」「頑張る」返事はするが足が言うことを聞かない。異常な鈍さでそれでもこの一歩を出さねばと思う。ようやく声の所まで行くと握った雪を与えてくれた。下り始めた所ははっきりと覚えているけれど、この地点までどのくらい降りてきたのか思い出せない。上から声が降ってくる。「ゆっくりでいいよ」自分のだらしなさが情けない。鈴木さんの足が見え、雪を口に入れる。この雪とはっさくアメと掛け声に吊り上げられるように重い身体を上げる。「あと少しだ」傾斜が緩み見上げると空を背にして鈴木さんが腰を掛けている。最後の雪の塊。よかった。だらしないパートナーで御免なさい。
 なだらかな綺麗な斜面を下るうち次第に足も軽くなる。里の屋根も見えてきた。以前から奥深く入りたかった道志行きが実現して本当に嬉しい。人気のない山も宿屋も降り立った里の風景も描いていた以上の存在感でそこにあった。終わってしまうのが惜しまれる。楽しい山行だった。今度はいつになるのだろうか。粉雪がさらさら舞っていたら最高なのだけれど。
 山は味のある読書に似ている。空を読み、道を読み、体調を読み、連れの心を読む。文字にならぬ行間の言葉が読み手次第で無限に広がる。そんな山にまた出掛けたい。


トップページ > 岩つばめ一覧 > 岩つばめ240号目次