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谷川岳のうさぎ
宮坂 和秀

 谷川岳の東面へ喰い込む沢の一つに西黒沢というのがある。土合から谷川岳への登山道の一つに西黒尾根があるが、この尾根の左側の沢がそれで谷川岳の沢ルートとしては易しい部類に属する方である。
 私達はこれすらも敬遠して西黒沢の枝沢であるザンゲ沢を遡ることにして入って行った。白サギの滝を登って雪渓が二つに分かれる狭い方の沢がザンゲ沢である。
 登るほどにクレバスがしばしば現れてきて正面にはザンゲ岩が仰ぎ見えてきた。右手の岩稜はまことに登りよさそうに見えるが実際には見たほど楽ではない。アイゼンを取り付けた靴では雪渓をできるだけ詰めた方が楽である。だが、今度は雪渓と尾根との接点が融解していて上陸地点がなかなか見つからない。無理をして上陸を決行しようとしても雪渓の内側がえぐれているので大変危険だ。この時ほど梯子があればなあーと思ったことはなかった。
 そろそろ雪渓も傾斜を増してきて、もう危険になってきたなと感じられる頃、ピッケルで足元を探り探りザイルで確保しながら左岸(右側)へと飛び移ることができた。これから岩稜を猿山の猿よろしく両手を使いながら登って行った。岩稜とはいってもナイフリッジではないので意外と楽だと思った。
 気楽な気持ちでザンゲ岩を目指して登りを続けて行く途中で、何気なく足元の岩陰を見ると何か毛皮のようなものが落ちていた ー と咄嗟にそう感じた。しかし、直ぐに野兎だと思い直して、さっと手が伸びて逃げる寸前に取り押さえることができた。まだ子兎のようで、多分安心しきって昼寝をしていたところに相違ない。大人ならば寝ていても手捕りにされるようなドジは踏まないだろう。
 家兎と違って性格は荒く、耳を持ってぶら下げても暴れて後ろ足で手を引っかかれ危うく逃しそうになったので私は被っていた帽子の中に包み込んでリュックのポケットの中に収めた。
 ザンゲ岩も過ぎ、谷川岳の肩の小屋を経て山頂に登り着いた。今日は雲を探してもあまり見当たらないような快晴である。天神峠から谷川温泉へ下る予定なので頂上での休憩を充分楽しんだ。
 頂上から天神峠へと向かってスタコラ下だってくると、背中の辺りでクーとかキャーとかいうような奇妙な声が聞こえてきた。あっ、そうだ、ポケットの中に兎が入っている。すっかり忘れていた。奴さん苦しいのか、将来を案じてか奇声を発したのであろう。そうか、心配していたんだね、よし、よし、助けてやろうよ。
 捕まえた時には、東京へ帰って鳥屋さんにでも頼んでバラしてもらい、うさぎ鍋にでもして一杯の材料にしようと思ったのに。お前がのんびり昼寝なんかしていたばっかりに、私は彼を捕まえて彼の故郷からは一本違う尾根へと誘拐して連れてきてしまった。二度と捕まることのないように新天地で気を入れ換えて暮らしなよ。
 リュックのポケットから取り出して傍らの岩の上に置いてやったが一向に逃げようとしない。早く行けよとばかりに押してやるのだが、すっかり怯えてしまったものか岩の上にしがみついたまま離れようとしないのである。
 しばらくしてからその岩を振り返ってみると彼はもうそこから消えていた。天神峠から谷川温泉への森林帯に入っても暫くの間はあの子兎はどうなっているのだろうかと、念頭から離れていかなかった。


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