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山のはなし
田原 宏史

 山で飲む酒には格別のおいしさがあるものです。かなり前のことになるが一ヶ月ほど穂高の山の中で過ごし、相棒と一緒に涸沢から横尾を通り徳沢へと下山の途中、そうそうあの時はドシャ降りの雨だったっけ。前から来る一人の男とすれ違った途端、お互いに「オォ」「オォ」と一声。そう我々二人は酒好きだが相手もそれを上回る酒豪である。彼は有名な山岳クラブの大幹部である。「これから入山か?」「そうだ、お前らは下山か?」「そうだ」「それにしても久しぶりだな、そうだ差し入れのジンが一本あるが時間がまだあるから一杯やるか」この最後の一言が大騒ぎの発端になるとは、この時は三人とも知る訳もなかった。ドシャ降りの雨の中で傘をさして立ったまま差し入れのジンを瞬く間に飲み干してしまうともう止まらない。我々二人はザックをそこら辺りに置くと横尾の小屋へと三人連れだっていく。先ほど下山の途中でビールを飲んだ小屋へ着くとおやじさんがうさん臭そうな眼で我々を見ている。さっきの道端で立って飲んだのと違って今度は小屋の中で椅子に座って飲むんだからもう止まらない。昼を過ぎても酒のお替りは続く。ラーメンをつまみに我々三人のおしゃべりは果てしない。そして悪いことに三人は格段に声が大きいのである。そしてだいぶ酒の量が入っているのであるから想像がつくでしょう。
 案の定、小屋のおやじに外へおん出されてしまった。それでも、ウィスキーに日本酒、ビールを買うと(今思うとよく売ってくれたもんだ)、横尾の橋の下へと転がり込む。橋の下と言ってもドシャ降りの雨を避ける屋根代わりにはならない。またまた、傘をさして酒盛りの開始である。夕方近くになって涸沢で合宿中の仲間が待っているから彼は登ると言う。我々二人もそれでは下るとするか。ということで酔っぱらいは雨の中、横尾の橋の上で別れた。と、ここまでは良かったのだが、我々二人はもう酔っぱらってしまって夜になって上高地へ着き、バスターミナルでダウン、ステーションビバークをして翌日帰京となるが、話はまだ終わっていない。山の上では大騒ぎが起きているとは我々二人は知らなかった。半月ほど経った頃、鹿島槍へ登るべく鹿島館へ寄ったところ、あの事件はお前らだろうと言う。何のことですかと聞くと新聞に出ていたニュースのことを教えてくれた。それによると、涸沢へ登ったはずの友人は途中の本谷橋まで登った所でもうどうしようもなく酔っぱらってしまい、眠くて仕方がないので丸木橋を渡った所で雨の中なのにそのまま横になって寝てしまったのです。その姿に通りかかった登山者がこれを見て人が死んでいると思い、山岳パトロールに連絡をしてしまい大騒ぎとなり新聞にまで書き立てられる羽目になったのです。
 本人は起こされた時も酒のにおいがプンプンで周りで大騒ぎをしているのは何なのか知らなかったということです。この事件以来、我々はしばらくの間、肩身が狭い思いをしながら山に行ってたものです。もう随分と昔の話なので時効のつもりでおります。


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