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冬の上高地 日記より その2
江村 真一

 12月31日、大快晴だ。待たされた挙げ句の冬の晴れ間は特に素晴らしい。7時には描き始める。峰々に朝日が輝き始め頂上部分のみ茜色だ。その光り輝いている面積が広がって、だんだん下へ降りてくるのがよく分かる。まだ私の立っている所まで暖かい光が届くまで相当時間がかかりそうだ。梓川から立ち上がる靄のためもやもやしている上にこの暗さだ。上部の光り輝いている部分と誠に対照的だ。
 夏なら車の通れる田代橋も今は人一人しか歩けない狭い橋になっている。大雪でとんがったカマボコ型になっているのだ。スケッチブック2頁を続けて奥歩から前穂へかけて描く。斜光線があたり立体感をいっそう強調している。じっと見つめればヒマラヤ襞の入った雪壁に雪崩の跡と今にも落ちそうな不安定な所がいくつもある。先日岳沢に入ったというトヨタ自工さん、さぞ恐ろしかったことだろう。手も足も痛くなって、そうだまだ朝食も摂っていない....。三峰の仲間も入山してくる。そしてあそこへも行ってみたい。頭の中にやるべきことが次から次へと浮かんでくる。
 田代池にて充分に山を眺めスケッチをして入山してくる仲間を迎えに行く。山の中での出会いは分かっていても嬉しいものだ。数多くのパーティが続々入山してくる。いくら聞いても三峰らしいパーティは分からない。大正池旅館の前で沢山あるザックの中に見覚えのあるオレンジ色のもの、そうだ確かに伊藤君のザックだ。中に入っても大声はすれど姿は見えず。一番奥に座って入山の乾杯をしているところだ。懐かしい顔が並んでいる。皆ツイテいる。今までの悪天候を知らずに、この快晴の日に入山とは。
 田代池に寄ることを勧めて全員で冬姿の焼岳や穂高を充分に堪能する。
 私一人の小さなカマ天の隣に大きな大きなカマ天とエスパースが建ち、三峰村が出来上がったのは午後2時であった。
 1月1日、下り坂と思われた天気も満天の星である。5時20分、西穂へ向け出発。予定よりやや遅い。すぐに樹林の中の急登である。もうこれ以上雪はさんさんと樹木が個性豊かに表現している。西穂小屋8時20分着。雲上の乗鞍岳が朝日に輝いている。目の前に逆光の霞沢岳が堂々とした姿である。昨年登った八衛門沢が真正面に見える。苦労したヤブも雪に隠れて見た目には登り易そうだ。これから行く独標が遠くに白く輝いている。頂はその奥だ。
 さすが冬の3000mに近い稜線だ。雪は硬く風は強い。それが快いのだから不思議だ。登るにしたがって吊尾根の全容が姿を現してくる。素晴らしい、雪もたっぷり蓄えた峰や谷、と同時に昨年の冬山で吊尾根にいたことを思い出す。天国と地獄が共においでおいでをしていたあの事実、冬山の素晴らしさと恐ろしさを教えられた滑落事故。一同慎重に歩を進める。独標10時15分着。天気も上々、時間も十分。これからヤセ尾根の緊張地帯へ足を踏み込むところであるが、メンバーその他の事情で頂上を諦める。やや残念な気もするが致し方ない。ここではまだ槍の穂先が見えない、何か槍ヶ岳を見たい見たいという気が強くする。槍を見ると心が安定するのか。各人のんびり写真を撮ったり写生をしたり、狭い独標の上を行ったり来たり。
 下山はもったいないように早いものだ。田代橋直前で少々悪ふざけ。ベースへ着いている後発隊と定時交信をする。「まだ西穂小屋前にいるのでビールを買っておいて欲しい」その1分後に帰幕。ザックを持ってビールを買いに行くところの久美子ちゃんはあっけにとられている。怒る宏史。ニヤニヤ顔のよっちゃん。とにかく予定の全員集合。
 1月2日、雪、二つ玉低気圧に挟まれ天気は急激に悪化しそうだ。予定を変更して蝶ヶ岳行きを徳本峠へ行くことにする。
 雪の降る中を徳本峠へ向かう。明神から右へ分岐するがトレースは延々と続く。誰かが"熊だ"と叫ぶ。確かに丸々として黒っぽい動物が右手前方を歩いている。しかし、この雪の中に熊がいるだろうか。冬毛でふさふさしたカモシカである。夏姿のカモシカとこうも様子が違うものか。峠直下にて、珍しいというか初めての経験をする。どうも木立が乱れ変だなと思いながら歩を進める。枝や幹が雪面に散らばっていたり雪の下から顔を覗かせたりしている。トレースは真っ直ぐその上を通って峠へと続いている。しかし....いよいよ変だ。雪崩の跡だ。急に恐ろしくなる。樹林帯にも雪崩は起こるのだ。2~30センチの幹が何本も強大な力によって割れ裂け飛び散っている。少なくともこの木々が育ち始めて以来のことだから何十年ぶりの雪崩なのだろう。今、雪崩れても不思議ではない。皆逃げ足の速いこと。
 明神の池にある穂高神社奥宮に詣で嘉門次の小屋で囲炉裏にあたってゆっくり昼食と昼寝。雪は降り続いているが風はあまり強くならない。岳沢との出合にてサルの大群と遊び3時30分ベース着。
 1月3日、三峰の仲間は下山して新島々の温泉に行くという。そろそろ里心がついてきた私であるが何とか初志貫徹。もうしばらく滞在して次の晴れ間を待つことにする。典型的な冬型の気圧配置で風説が強くなるとの予報のため続々下山していくパーティが多い。木村小屋まで皆を送る。山の人口が急に減って静かになった。
 寝袋に入ると自然の声が聞こえてくる。不気味な雪崩の音、樹林を通り抜ける風の唸り声、テントに吹き付ける雪の音。気を紛らわすために酒を飲みながら大学駅伝を聞く。....上田哲農の"山とある日"を読む....退屈だ。
 午後2時、便所へ、あんなにあった天幕が数張しか残っていない。三峰のカマ天の跡は雪のスロープとなって自然の中に溶け込んでいた。私の小さなカマ天は深い深い穴の中。今夜は除雪が大変だろう。
 1月4日、うとうとしている間に一夜が過ぎ去った。人間一人対自然、私は完全に負けた。降りしきる雪、強風、寒冷、薄暗い大地、全てが恐ろしい。何としてでも早くここから逃げ出したい。早く下山しないとここに閉じ込められるか、帰りに雪崩にやられるかも....不安材料ばかり脳裏を駆け巡る。昨日しばらく滞在しようと決めたばかりなのに、なんと気の弱いことかだらしないことか。食料も装備も十分なのに。
 木村小屋にお礼かたがた顔を出す。「残念だったな、あまり天気が良くなくて、また来いよ」元気づけられて出発。雪はどんどん降っていて、釜トンネル前後のあの恐ろしさ。目の前を眼下の梓川へサラサラとあわ雪崩が落ちていく....。
 28日から入山して、丸8日間の冬の上高地、前から一度は経験したかった冬の長期滞在だったが、残念なことに中断せざるを得なかった。正月が過ぎこれからが人気のない本当の冬の上高地があることだろう。


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