トップページ > 岩つばめ一覧 > 岩つばめ248号目次

笊ヶ岳停滞
勝部 辰朗

山行日 1983年4月16日~18日
メンバー (L)勝部(辰)、勝部(久)、伊藤、川森、高橋(正)、岩崎、岡部

 今回の笊ヶ岳は惨々な失敗に終った。元々前夜発1泊2日の日程では多少無理があった。しかし、もう1日取るとなると私自身休みが取れるかどうか一抹の不安があったし、この例会山行に参加できる人はそういなくなると思われた。そこで初日の内に頑張って布引山まで上がれば十分できると思ったし、足の揃ったメンバーならもっと楽にこなせると思った。装備にザイルやナタもと思ったが、笊という山をナメたこともあり、できるだけ荷を軽くと思い持って行かなかった。
 4月15日夜、東京駅に集合したが、ここで大きなドジを犯したことに気がついた。装備を調達する段階で、テントの内訳を指定しなかったため、担当者は調達したテントをそのまま持って来てしまった。集合場所でハッと気がついて確かめてみたらやはり内張りはあるがフライがない。今回の山行は、雨にたたられることは十分予想されただけに愕然とした。
 富士駅で仮眠している時、すごい雨が降っていた。身延駅を降りる時も降ったり止んだりの繰り返し、富士から身延までまでの車中で考えた。行程的に無理があるところにこの雨で、ヤブっぽい所を行かなければならないとなるとペースは落ちるし、おまけにフライがないときている。およそ笊まで行けないだろうし、4月とはいえ濡れた後に冷え込まれでもしたらたまらない。
 そこで目的地を急ぎ七面山に変更しようと考えた。ここなら頂上に神社もあり雨の時は逃げ込めるし、行程的に楽なハイキングコースだ。身延で皆にその旨を言ったら、明らかに不満顔だ。無理もない、ここまで来てハイキングもないものだし、面白くもなんともない。迷った末、笊ヶ岳はあきらめてフライの代わりに銀マットやヤッケを天幕に張って雨をしのぎ、布引山までのピストンだけとした。
 老平にてタクシーを降り出発、奥沢谷沿いの山道を進み、二俣の少し手前に来た所で道が欠落し、10mくらいの垂直に近い崖を登らなければならなくなった。ザイルはないがシュリンゲをつなげたりして、なんとか乗り越えた。そして、二俣に出て川を渡るのだが、丸木橋が流されてない。渡渉点を探したが水量が多く流れも速い。男性だけならなんとか石の上を飛んで渡れるが、女性には無理だし、もし川に落ちたら流されて助からないだろう。しかし、大きな流木を皆で渡し、橋を作りなんとか渡ってしまった。それから布引山への急登に入ったが、この時、帰りにここを渡り返せるかという不安が一瞬よぎった。今も小雨が降っているし、水量がまだ増すことは十分考えられた。この時点で伊藤氏も同じことを考えていたそうだ。しかし、もう気持ちは布引山まではなんとか登りたいの一心で「大丈夫だ、なんとかなる」でごまかしてしまった。架線台場跡に着いたのが15時45分、布引山までここから約4時間半ぐらいかかる。崖登りと渡渉で時間をくいすぎたこともあり、この時点で布引山をあきらめて、ここで幕を張ることにする。幕を張る頃から雨はひどくなり、結局一晩中降り続いた。
 4月17日、天気雨、二俣まで引き返してきた。川は増水してとても渡れたものではない、どこかヤブ尾根を巻いて下ろうと考えたが、今日明日中に下山できそうなコースもないし、やるにしても体力を使う上に食糧もない。増水も1日や2日ではとても引かないだろうと思われた。
 伊藤氏は早くから、老平出発の時地元の人から聞いていた造林小屋を探して、そこで停滞しようと決断していた。しかし、私は決断がつかず「これは一種の遭難状態だな、下の方では騒ぎになるぞ」「メンバーも無断欠勤を何日もして大変だぞ」などと考え、真っ青になってしまった。なんとか今日中に帰る方法を思い巡らしたが、どう考えても伊藤氏の決断が一番正解だと思えたので、残りの食糧を管理して、2日3日停滞と腹を決め、造林小屋へ向けて出発した。
 腹を決めてしまったら、気持ちは嘘のように楽になった。小屋までの道もガレていて危ない。なんとかごまかして渡ってしまおうと思ったが、伊藤氏に「新人や女性もいるんだぞ、折角ここまで来てこんなつまらない所でケガをしたらどうするんだ」と言われた。慎重に時間をかけ、シュリンゲをつなぎ合わせ、フィックスして通過する。つくづくザイルが欲しいと思った。すぐ近くに小屋があると思われるのに、雨の中の悪路で行程ははかどらずにイライラする。この先本当に小屋へ行き着くのだろうかという弱気な気持ちがふと頭をもたげたりもした。
 小屋はあった。歓声が上がり皆の顔がほころぶ。地元の人に聞いた感じと違い、随分立派な小屋で、フトン、マキ、ストーブ、おまけに古いが米までたくさんあった。雨は夕方止み、天気図を取れば明日は晴れだ。なんとか明日帰ろう。水が早く引いてくれることだけ祈った。
 4月18日、快晴、二俣へ来てみると思ったより水は随分引いていた。よかった。小屋から無断借用してきたノコギリ、オノで木を切り橋を架ける。今回は、わざわざ東京から二俣に橋を架けにやってきたような気がする。二俣を過ぎ、例の10mの崖を川森氏が二俣近くで見つけてくれた麻ロープを使って下る。このロープがあって本当によかった。
 1日遅れで下山し播磨さん宅に電話したら、メンバーの会社の人達が心配して遭難騒ぎになっており、江村、植村、佐藤(明)、田原さん達が会社を早退し救助に出発しようとしていたところだった。本当に皆さん、ご心配、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。この紙面を借りて、お詫びとお礼を申し上げます。
 今回の失敗は、計画をした時点より失敗することは明らかであったと思うし、また山行中もリーダーであった私の力量不足を痛感しました。余裕ある計画、完全な装備等実に基本的で分かり切ったことだったのだが・・・。山という自然に向かうに当って、安易な妥協や迎合やナメたまねをしてはならないとつくづく思った。しかし、こう言っては皆に怒られるかも知れないが、七面山に行かず布引山を目指して行ってよかったと今は思っている。それだけ得る物の多い山行となったのだから。原稿を書いている今、是非もう一度笊ヶ岳をやらなければならないという気持ちが湧き立って止まない。

〈コースタイム〉
4/16 老平(7:55) → 二俣(10:50~12:50) → 山の神(13:50) → 架線台場跡(15:45)
4/17 架線台場跡(6:35) → 山の神(7:10) → 二俣(7:40~8:00) → 山の神(9:00) → 造林小屋(11:00)
4/18 造林小屋(7:10) → 架線台場跡(7:40) → 山の神(7:55) → 二俣(8:40~10:05) → 老平(13:45)
笊ヶ岳
高橋 正純

 4月15日、東京駅を夜行で発ち、富士駅で下車し、身延線ホームで仮眠をとり、一番列車に乗り身延駅でタクシー利用で雨畑湖、馬場に着く。
 馬場から奥沢川沿いの林道を歩く。30分程度で登山口着、標識がないため少々迷った。登山道は最近登山者が歩いた形跡が認められず、険悪な道である。架け橋も崩れている所があり、前途に多大の不安を感じた。前日から降り続いている雨のせいか、下を流れる沢が不気味であった。難渋しながら歩いて約1時間、河原に出る。沢をはさんで向う側に登山道が見える。降雨のため増水している沢は渡渉不可能。悩んだ末、周囲から丸太を集め、岩伝いに通し、その上を何ともいえない気持ちで全員渡った。渡りきった河原で遅い昼食をとる。急な勾配の続く登山道を1時間30分程登ると、遭難碑のある所にたどり着く。標高約1800m、ここで小休止をとり地図を確認する。その結果我々の目指す山頂は、はるか遠方にあり、明日迄に到着不可能であることがわかった。明日下山することにして、少々登った所でテントを張り幕営した。この地点から下方に無人の造林小屋の屋根が見えた。
 夜が深まるにつれ雨は激しくなってくる。足元が冷たく水で濡れているのが分った。
 翌日は5時頃に起床し、足元をライトで照らしてみると、15cm程水が溜まっていた。朝食を済まし、テントをたたむ間も雨は降り続けている。下山するにつれ沢音は高くなり、いやな気分になってきた。河原にたどり着くと、前日よりも激しく沢の水が流れていた。我々の気力はすっかり沢の水に吸い込まれた。今日はこのぶんでは帰れそうもない。雨は降り続き、フライシートのない我々はテントも張れない。前日見えた造林小屋まで下山した道を、また登りそこで一夜を明かすことにした。最近造林小屋は利用していないため、そこまでの道は困難をきわめた。明日帰れるかどうかよりも造林小屋に無事着けるかどうかの心配が先にたった。苦労の末造林小屋に着くと、そこは我々に元気と活力を与えてくれた。5、6人寝られるだけのフトンと毛布と米が約30kg、ストーブ、マキ、ガス釜まであった。
 翌日になると良い天気になり、富士山が美しく見えた。8時頃造林小屋を出発、問題の河原に着くと、昨日に比べて水量が減少しており我々は安心した。小屋から拝借してきたノコギリで木を切り、粗末な橋を架けた。努力の成果もあって、全員無事に沢を渡り、すっかり気を取り直し、雨畑湖馬場に到着した。ここからタクシーで下部温泉駅まで行き、温泉には入らず身延線で甲府経由で帰京した。


トップページ > 岩つばめ一覧 > 岩つばめ248号目次