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谷川岳東南稜登攀
佐藤 朋子
山行日 1983年7月10日
メンバー (L)片岡、佐藤(明)、植村、勝部、安田、赤松、宮川、吉岡、佐藤(哲)、佐藤(朋)

 "谷川岳"この響きには、どこか陰湿なところがある。702人の命が散った岩場というイメージがあまりにも強いからだろう。登山などやらない人でも谷川岳と言えば、魔の山というイメージを持つ人が多い。その魔の山の岩場へ私もとうとう足を踏み入れることになってしまった。
 7月9日、22時7分発の電車で土合へ向かう。初めての本番の登攀ということで、前から心配でたまらなかった。毎日、東南稜のルート図と解説書とのにらめっこ。いっそのこと雨が降って中止になればいいのになどと逃げ腰になっていた。期待に反し、天気予報では曇りとかいっている。
 覚悟を決めて乗り込んだ電車では、明日に備えて寝ようと思って目を閉じたが、不安と緊張のためか頭が冴えてまったく寝つけない。高崎を過ぎてから2~30分くらいうとうとしただろうか「起きろ」と片岡さんの大声で、浅い浅い眠りから引きずり出される。土合の長い長い階段を登る。何度も登った階段だが、登攀のために荷を軽くしてきたためか、今までになく楽だった。改札を出ると待合室はいつもの如く登山者であふれ、山を前にした一種独特の雰囲気が漂っていた。
 3時10分、懐電を頼りに出発。3時50分マチガ沢出合い着。昨日から入っていた東南稜隊のテントに入る。4時半出発なのですぐに朝食をとる。睡眠不足と緊張のためか食欲などまったくないが、「腹が減っては戦ができぬ」ので、無理やりパンを頬張る。みんな冗談を言って楽しそうにしているが、私は話をする気にもなれない。
 4時30分、外はすっかり明るくなった。「西黒尾根隊で行きたい」などと、逃げ腰になる自分をぐっと抑え、ゼルバンを着けて身を引き締める。霧が深くいつ雨が降ってもおかしくない空模様。
 4時40分、今から仮眠を取るという西黒尾根隊に見送られ出発。沢沿いに15分ほど登るとマチガ沢本谷の雪渓となる。「みんな歩くの速いな、どこまでついて行けるかなあ」黙々と後からついて行く。雪渓はクラストしていてキックステップもあまりできずつるつる滑る。私は登山靴だからまだ良いが、底の磨り減ったガントレの人達は大変だ。途中で拾った木を杖にして登る人もいる。次第に傾斜が増してくる。雪渓に落ちている枯草に慎重に足を乗せて登る。
 5時35分、S字状カーブを過ぎシンセン右俣と思われる辺りから雨が本降りとなる。全員カッパを着ける。ここでこの雨の中、登攀を決行するか中止して下るか相談する。私はこんな雨の中ずるずる滑る岩を攀じるなんて、とても考えられなかったので中止して下りたいと思いを込めて「本当に登るんですか?」と聞いてみた。みんなも何となく中止してもいいような雰囲気だった。
 しかし、登ってきた雪渓を振り返ると、かなりの傾斜がある。ピッケルも持っていないのにスリップでもしようものなら止める術もない。登るより下る方が危険との判断から、予定通り東尾根を登り東南稜取り付きに下降して東南稜を攀じってオキノ耳へ、というコースを進むことにする。背水の陣である。
 霧が深く東尾根は見えない。雪渓はますます急になりスリップの危険が多いので、雪渓に沿って岩稜隊をトラバースしながら進む。岩肌は雨で濡れ、水がどんどん流れている。滝を登っているようなものだ。
 シンセン右俣から東尾根に取り付くはずだったが、いつの間にか出合いを通り過ぎてしまったらしい。結局、マチガ沢本谷の30メートル滝を過ぎた辺りでようやく雪渓が切れる。チムニー滝や残置シュリンゲのあるツルツルの外傾スラブを越す。最後の5メートルほどのチョックストーンのあるチムニー滝は左手の急なリッジに取り付く。
 ここで私が取り付きで順番を待っている時、「落!」の声と共に、岩がぶつかり合う鈍く重い音。大人と子供の頭くらいの石が1個づつと、拳大の石数個が視界に降り注ぐ。とっさに側壁にへばりつく。足場が不安定だったので避けられなかった。音が消えるまでの緊張の一瞬。右肩に鈍痛を二度感じる。続いてヘルメットに乾いた石の衝撃がくる。頭大の岩と拳大の石が当たったのだ。静寂が戻り「だいじょうぶか?」の声に、静かに体を動かしてみる。不思議に痛みはない。カッパの右肩の部分が切れているのも、人に言われるまで気づかなかったくらいだ。「だいじょうぶです!」のコールを返し、濡れて滑るチムニーを登る。
 後は、草付き混じりの易しい登りで、ようやく東南稜基部到着。8時10分、既に登山靴の中はぐしょぐしょに濡れている。雨はまた一段と激しさを増してきた。
 登攀の順番とザイルパートナーは次の通りです。植村・片岡・宮川・佐藤(朋)・赤松・吉岡・安田・佐藤(哲)・勝部・佐藤(明)。
 基部テラスでザイルを結び登攀準備完了。8時20分、片岡さん登攀開始。じっと順番を待っていると、雨が堪える。寒い、ビレーを取っているハーケンの近くにヒナウスユキソウが2輪、寄り添って雨に耐えている。
 8時35分、いよいよ私達の番だ。宮川さんがトップ。ザイルは既にぐっしょり濡れている。確保している間も、雨に加えて緊張感がじわじわとこみ上げ寒さが増す。「ビレー解除」のコールがかかる。ザイルがピーンと張られる。「登ります!」の掛け声で自分に気合を入れ、岩に取り付く。すぐに「落」の声と共に、拳大の石が降ってくる。またもや岩にへばりつく。石が落ちていく音がしない。下で赤松さんが笑いながら「ザックの上に乗ってますよ」と言う。「えっ?」ザックを振っても落ちない。仕方なく手を後ろに回し、ザックの上に居心地よさそうに鎮座ましましている石を取り払う。「荷物は少しでも軽い方がいいのよ!」。
 さて、気を引き締めていよいよ登攀開始。1ピッチ目は傾斜のゆるい凹角だがホールドが乏しい上に、岩はナメ滝のように水が流れ、ホールドをつかんでいると手を伝って水が腕の方に流れてきて、冷たいことこの上ない。フリクションを効かせて10メートルほど登ると、ルートの核心部になる。左壁のハングを右に回り込む所で苦労するが、セカンドなのでビレーポイントをつかんで何とかテラスに着いた。
 2ピッチ目は私がトップ、クラックにホールドを求め10メートルほど登る。濡れている割にはフリクションが効く。攀じっている時は雨も忘れ、ひたすらホールドを求めていたが、ビレーしていると雨が降っていることを思い出す。
 3ピッチ目、宮川さんがトップ。ホールドが豊富で傾斜のある草付きの壁をぐんぐん登る。「ザイルいっぱい!」何度コールしても返事が聞こえない。かすかに「登ってこい!」と言っているように聞こえたのでビレー点まで行く。ホールドが大きく楽に攀れた。
 4ピッチ目、リッジを楽に登り登攀終了。9時50分。ここから緩傾斜の草付きをトラバース気味に登り国境稜線からトマノ耳へ。山頂着10時。風雨が強く寒い、でも尾根道からしか山頂に立ったことのない私にとって、この時の登頂は軽快で楽しかった。
 初めての岩登り本番が無事に終了したのは、ザイルパートナーの宮川さんのおかげです。ザイルパートナーを信頼するって本当に大事なことなんですね。
 最終パーティと西黒尾根隊を待つために肩の小屋に入る。緊張もほぐれ、みんないつもの通りワイワイギャーギャー、バカ話に笑い転げる。岩攀りの一瞬一瞬の緊張の後、みんなで冗談を言い合う時、心の底から安堵感に浸ることができる。
 11時50分、西黒尾根隊着。12時10分、東南稜の最終パーティ到着。全員無事にそろい記念写真を撮る。12時20分、各自勝手にマイペースで巌剛新道をマチガ沢出合いに向けて下山開始。
 雨でびしょ濡れの体は谷川温泉でゆっくり温める。締めくくりは、道路の真中でスイカとメロンを真っ二つに割り、中をくり抜いて手づかみ。正常な人間は山になんか登らないのですよ。まして岩攀りなんて、人間のやることじゃないですよ。でも面白いんだよね。止められないんだよね。


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