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白馬主稜
千代田 美紀

 60年3月4日、(月)、雨、なぜか眠れない夜。
 さっき、植村さんからの電話で月末の山への誘いがあった。なぜか胸がドキドキしてきて余計に眠れなくなる。大丈夫かな今度こそ死んでしまうかな・・・なんて考えて、鹿島槍か槍ヶ岳か、北鎌コースか、いずれにしても少しトレーニングしないといけない。
 日記より抜粋、3月4日にこう書かれてあった。遭難事件を予感したのかどうかは知らないが、あんな事になるとは・・・。
 3月25日、(月)、23時20分のアルプス9号にて白馬へ着く。
 3月26日、(火)、雨後晴れ、白馬で降りた人はほとんどがスキーヤーだ。色とりどりのヤッケがえらく若く見せている。山やは我らの三人と、宮崎大の二人パーティと、八方から不帰に行くという三人パーティのみ。外はまだ雨のため9時まで仮眠をして、10時に宮崎大の二名と一緒にタクシーで二股まで入る。雨はまだパラついているが何とか止みそうだし、10時40分二股を出発する。猿倉山荘に着いた頃は快晴になっていた。荷が重いのどーのこーのと文句を言いながら猿倉台地着は13時10分、宮崎大の二名はもう少し先まで行くらしいが、我々は今日の幕場はここと決め、早々に穴掘りを始める。まっ平な台地に縦穴を掘ること2時間、ユーさんの体力に感謝し、美味しいトン汁とオコワを食べて21時就寝する。
 3月27日、(水)、曇り後雨、今日は何とか八峰までには登りたいという思いのもと、6時30分天場を後にする。天候は曇り、雨は落ちてくるにはまだ4~5時間もつのではないか、しかし、願いはかなわず8時にはもう大粒の雨が落ちてきた。
 ガスで見通しが利かず、一度間違えて杓子尾根に登ってしまう。デブリの跡を恐々トラバースして主稜に取付いたが、大雨のため11時には行動を中止した。植村さんと湯谷さんが必死の思いで穴を掘ること2時間、私は必死の思いで寒さと風に耐えること2時間。春の雨ほど寒いものはなかった。バーナーで乾かせるだけ乾かして、もう夕食を作る気力も無くして、18時シュラフにもぐり込む、しかし寒さのためか22時30分目が覚める。バーナーに火をつけ、クツ下、セーター等を乾かして再び就寝する。
 3月28日、(木)、晴れ、昨日の大雨は一体何だったのかと言いたくなるほどの晴天。今日はもしかしたら主稜を抜けられるのではないかという希望的観測で出発しようとした時に、アクシデントが起こった。風のいたずらか、植村さんのザックがまっ逆さまに谷の下まで落ちてしまった。植村さんと湯谷さんが回収に行ったが、ラジオ、アルファ米、行動食少々、周遊券ETC・・・等なくす。けれどこれくらいのことでは引き返すに至らないと判断をして9時天場を後にする。雪の状態は表面だけのクラスで、すぐズボズボ潜ってしまう状態だった。この日の行動は五峰までとし、昨日濡れたシュラフ、ザック、衣類等乾かしている時に、またアクシデントが一つ。風のいたずらか植村さんのゾウ足とオーバーミトンが片方ずつ、それにマフラーが突風にさらわれてしまった。なかなか受難続きの山行である。今晩は雨の心配がなさそうなので、ブロックを積み上げてツェルトを張った。雨は落ちなくても稜線での風はなかなかのものだった。一番端にいたユーさんはたえず風に押されていたと言う。
 3月29日、(金)、曇り後吹雪。
 3時起床、天気は高曇り、今日こそ主稜を抜けられるはずである。6時10分幕場を後にして頂上へと向う。段々と傾斜がきつくなるナイフエッジの稜線をあえぎあえぎ登るが、どうも二人の足を引っ張ってしまう。体力がついていかない。最終ピッチ頂上直下にきた頃から、段々曇ってきたが、今回のメインである主稜を抜けるんだという緊張と興奮の中、ほぼ垂直に近い壁を湯谷、千代田、植村の順で登った。恐いなどと言ってはいられなかった、とにかく登らないことにはどうしようもなかった。今年は暖冬のせいで積雪量も少なく、雪庇に穴をあける必要もなく、そのまま乗っ越せる状態はラッキーだった。白馬のピークでは風の強いこと、逃げるようにして唐松岳へと向ったが、この頃から前にも増して私のペースがぐっと落ちてしまった。主稜を登った精神的な疲れがあったにせよ、なんといっても体力不足で10歩進んでは休むというペースにまで落ちてしまった。ようやく杓子のコルに辿り着いた時は、もう吹雪き始めていた。唐松どころではない、何日続くかわからない吹雪のためツェルトが張れるだけの雪洞を掘り、17時にようやく落ち着いた。残りの食料をかき集めてみると、普通に食べたらあと2日分しかない。いつ晴れるとも判らない吹雪中、食いのばしを始める。この日の夕食はカレー1袋を薄めて餅を入れたカレー雑炊(まだまともだった)。
 3月30日、(土)、吹雪
 吹雪き始めて1日目、まず今日は晴れないだろう。今までの天候の回復をみても、1・2日の周期である。ひたすら眠る。朝、飴1個、昼、ヨーカン、カンパン少々、夜、おじや1杯、バナナチップ少々、ゼリー。
 3月31日、(日)、吹雪
 今日あたりそろそろ晴れてきても良さそうなもの、それに今日が予備日の最終である。今日中に連絡が取れないと・・・・。晴れるならば夜間でも下山する気持があるのに、相変わらず吹雪は続く。ガスが濃く視界は50mくらい。ラジオはなくしてしまい天気図はとれないが、高度計で天気が回復に向っていることだけは判る。この杓子岳のコルより高度計の示す値はどんどん下がっている。しかし天気は回復しない。今日あたりから思うことは、食べ物のことばかりとなる。下山したら温泉が先かそれとも食事が先か真剣に考える、夢にまで出てくる食べ物。私は茶碗蒸しが一番食べたかったのだが。朝、飴1個、昼、甘納豆、バナナチップ少々、夜、おかゆ1杯。
 4月1日、(月)、吹雪後晴れ
 3時起床、まだガスが濃く視界はない。1時間毎に外を見るが晴間は見えない。11時わずかにガスの切れ間に日が射している。12時進めるとこまで行くことにする。天候は間違いなく回復に向っているはずだから、約3日間この雪洞に閉じ込められていたことになる。しかし、稜線の風はきつい。ろくな食事もしていない体にこの風はこたえた。それと視界も利かない。1時間程歩いたところで前進を諦める。私の体力がついていけなかったこととこの強風の中で前進することは体力を消耗するばかりであった。しかし、こんな風の強い稜線の上でツェルトを張れる場所なんてない。今まで居た雪洞に引き返すことも考えたが、体が持ちそうもない。何とか見つけた雪塊?に湯谷・植村両氏が穴を掘ること1時間。その間ツェルトを頭から被って待っていたが、強風でツェルトはバタつき、体温はどんどん奪われていく。何度叫んだことか、風よ止んでと・・・。この口では言い尽くしがたい風と寒さに耐えること、今回の山行で一番しょっぱかったような気が・・・。雪洞を掘っていたユーさんが、下に小屋とテントを見つけたと言う、なんと天狗山荘があるではないか。ここでまたしても私はペケをしてしまった。地図上に小屋マークがあるのに、おまけに3年前の夏に歩いておきながら、そんな小屋はなかったと言ってしまっていた。雪洞を掘っている所からものの5分も下れば小屋は建っていたのに、結局時間と体力の無駄遣いだった。そして、小屋の前には弘前大のテントが一つ、宮崎大と別れて初めて会う人たちだった。先ず天候を聞いてみる、回復はしてきているものの寒気団があったためなかなか晴れなかったらしい、どうりで!。それと遭難のニュースはなかったかどうか。これも聞いていないと言う。彼らも私達の後に主稜を登ってここまで縦走してきたのであった。スノーソーを借り小屋の前を整地してツェルトを張った。夕方近くなりやっと天気も回復し、夜には素晴らしい白馬の夜景が見えた。明日こそは下山できる。
 4月2日、(火)、晴れ
 朝っぱらからヘリコプターが飛んできた。小屋の真上まで・・・嫌な予感。今日こそ不帰を越え、唐松を越え下山しよう。朝、コーヒー1杯、チョコを三人で分けた。これで手持ちの食料は全てお終い。快晴のもと気は走るのに体はついていかない。私達の方が早く出発したのに後から出発した弘前大パーティに抜かれ、そして彼らを追いつつ、不帰ではザイルをフィックスしてもらいながら、ようやくの思いで不帰を越え唐松に向った。不帰では県警のヘリに名前を呼ばれ、不帰三峰のピークではヘリに乗った田原さんの顔がはっきり見え、食料を投下してくれた。これではっきりした、数々のヘリは明らかに私達の遭難と思われた捜索隊であり、今発見されたのであった。下界の動きが気になりながらも、八方尾根か見える素晴らしい不帰の峰々を眺めながら下山した。予定より4日遅れて。

原因はなんだったのか?
1. 日程3月26日~29日の予定で予備日が2日間は短かったのではないか。しかし社会人のパーティではこの日程が精一杯だった。
2. ルートの研究不足。主稜を抜けて天候が悪くなっているのだから、栂池に下山する手もあったのだが、初めから白馬三山を縦走するんだという意識があったため、栂池にエスケープルートを取ろうなんて考えもしなかった。ルートの研究不足。
3. トランシーバーを持って行かなかった。シーバーさえあれば何とか交信できたのに軽量化、軽量化で持つことを忘れてしまっていた。
4. 体力不足。弘前大は私達より2日後に出発しながら、私達より速く行動できている。男性と女性の体力を比べても仕方がないと言ってくれる人もいるが、結局は私の体力不足で遅々と行動に遅れをとらせ、それが積って今回のようなことになったともとれる。社会人は限られた時間の中でこなさなければならない宿命がある。体力ルートに行くことが判っていながら、自分の現在の体力の把握もしないで安易に参加してしまった。上村さんのリーダーなら何とかなるだろうという甘えがあった・・・等である。

 この騒ぎで田舎の両親は葬式のことまで考えたという。父は仕事を止め遺体を捜し歩くといった。母は好きな山で死んだのなら仕方ないと諦めていたという。職場の人も友人も、会のメンバーでさえ諦めていたという。ここまでの思いをさせてしまったこと、年度始めの忙しい時期に会社に家族に迷惑をかけ、白馬まで駆けつけてくれた会長さんを初め、大勢の方々に迷惑と心配をかけたことを思うと本当に胸は苦しい。感謝とお詫びの気持ちで一杯であるが・・・"山"は止めない、止められないのが本心である。もちろん、二度とこのようなことを繰り返すことのないよう、肝に命じて山に登るが、私は山に対して純粋でありたいし純粋に山に登りたいと思っている。今回の主稜を抜けたことや、八方から見た不帰の峰々、後立山連峰などみんな忘れられないものばかりである。
 最後に、御心配と御迷惑をかけました皆様、言葉はまとまりませんが、この紙面を借りてお詫びとお礼を申し上げます。本当にありがとうございました、また心配をかけて済みませんでした。それと数々の救助活動と励ましのお言葉、ありがとうございました。


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